フェルナンド・ペソアと『海の賛歌(オード)』

もう数十年前になるが、日暮れてスペインとポルトガルの国境を車で越えたことがあった。暗闇をひたすら走ると灯が見えてきた。リスボンだった。マドリッドバルセロナほど巨大な都市ではないが、夜にうかぶ光は旅人に安堵の気持ちをあたえた。ポルトガル人の心をとらえて離さない街であることもわかった。かつて流行歌に歌われた「東京」のように「リスボン」は常にファドゥに歌われる。ファドゥといえば、アマリア・ロドリゲスであるが、しばらくの間日本では現代ポルトガル文化のイメージはこの歌姫にしか代表されていなかった。しかしいまわれわれはペルナンド・ペソアを知っている。東京と荷風プラハカフカ、ダブリンとジョイスのように、リスボンペソアは切っても切り離せない。実際ペソアは生涯この都市を離れなかった。
 クロード・レジの『海の賛歌(オード)』にふれる前に、フェルナンド・ペソアとは誰かを調べてみよう。おそらくほとんどの日本人にとってこのポルトガルの詩人はなじみがないだろうから。『ポルトガルの海』の編訳者池上岑夫氏が巻末につけた解説を参考にしながら(訳詩も引用の文章も同氏による)、生の航跡をたどってみたい。
 ペソアは一八八八年六月リスボンに生まれた。両親が結婚したのは、その前年であったが、彼が五歳のとき父が他界した。二年後母は再婚した。新しい夫は今の南アフリカ共和国の都市ダーバンにあったポルトガル領事館の領事だった。ポルトガルは十五世紀の大航海時代以来アフリカとはつながりが強かったが、十九世紀にはダーバンはイギリスの植民地だった。だから公用語は英語だった。ペソアは母に従い、この地にやってきた。アイルランド人とフランス人修道女の経営するカトリック系の学校で教育をうけた。学校では英語、家庭ではポルトガル語という生活だったが、英語のほうがむしろ母語のようだった。事実二十歳になるまでは英語で詩を書いていた。一九〇五年、十年にわたるダーバンの生活に終止符をうって、ひとりリスボンに帰ってきた。スエズ運河を経由して帰国したのであるが、このときの船旅は『海の賛歌』にも反映しているとみられている。
 ペソアの人生にとってこの「ダーバン経験」は非常に重要な意味を帯びている。しばしば精神分析の対象にもなっている。帰国後はリスボン大学文学部に入学するが、翌年退学している。フランス語にも堪能だったので、リスボンのある貿易会社に席をおき、、英語やフランス語で商業文を作成する仕事をした。一九三五年十一月三十日肝硬変で世を去るまで、この平凡な業務を続けて、糊口を得ていた。生涯独身をつらぬいた。
 比較的自由な時間がとれる勤めだったので、一九一三年ごろから詩や文学的エッセーを書き始めた。当初はポルトガル人の国民性と精神的基盤は「サウダージ」にあるとする文学運動にコミットしていたが、次第にヨーロッパの他の都市で広がるモダニズムポルトガルの文学界に紹介するようになっていった。当然その中にはイタリア未来派の運動も含まれていた。ペソアはその時期マリネッティの影響も受けていた。アルヴァロ・デ・カンポスペソアの「異名」−で書いた詩『勝利のオード』(一九一四に書かれ、翌年「オルフェウ」誌に発表)にはこんな詩句がある。
 {工場の巨(おおールビ)きな電灯の刺すような光を浴び/おれは熱くなり、おれは書く}
 {エンジンは鉄と火と力のつくる熱帯の偉大な住人だー}
 {ああ モーターが自己を表現するごとく、おれのすべてを表現できたなら}
 ここには未来派的概念が歴然と現れている。それもそのはずで、ペソアは詩誌「ポルトガル未来派」にも寄稿していた。『勝利のオード』は当時のポルトガル詩壇ではスキャンダルとさえなった。このような詩的衝撃もしかし限られた世界の事件であったようで、ペソアはあいかわらず貿易会社に勤める、知られざる詩人であった。生前出版された詩集は『歴史に告ぐ』(Mensagem)一編だけだった。ところが死後膨大な量のテクストが発見された。「ペソアのトランク」とはそのテクストの総体を指す言葉として知られている。その後の世界的な再評価の動きについてはあえて言葉を費やす必要もなかろう。一九八五年パリで「ペソア展」があり、これをきっかけに訳書がおおく刊行されるようになった。このころから詩人の名は世界をかけめぐった。それ以前には言語学の泰斗ロマーン・ヤーコブソンストラヴィンスキーピカソジョイスとならんで、ペソアの名をあげているし、詩人に魅せられたイタリアの作家アントニオ・タブッキは「煙草屋」を「世界で最も美しい詩」と呼んでいる。
 ところで『海の賛歌』であるが、これは戯曲ではない。一九一五年アルヴァロ・デ・カンポスの「異名」で書かれた長編詩である。「異名」とはなにか。「変名」「仮名」ではない。一言でいえば「ペンネーム」ではない。ペソアは「異名」を好んで使い、その数は少なくとも十五にはのぼるが、一九一四年以降はデ・カンポス、アルベルト・カイエロ、リカルド・レイスの三人に集約した。タブッキの小説『フェルナンド・ペソア最後の三日間』には詩人の臨終のベッドにこの三人の「異名者」が姿をみせる。
ペソアは「異名」についてこう説明している。「異名による詩は本名の詩人とはちがう詩人の作品なのだ。それは本名の詩人が創りだした一人の完璧な人間による詩である。それはいわばある劇作家の作品に登場するそれぞれの人物の科白のごときものである」。こうして彼は三人の詩人を創造した。あとの二人はアルベルト・カイエロ、リカルド・レイスで、「三人のそれぞれは一種のドラマをなしており、それと同時に三人が全体としてさらにべつなドラマをなしているのである」。またある手紙でこうも書いている。「僕は本質的に劇作家だ。(中略)詩人としての僕のパーソナリティの核は劇作家的詩人であって、詩人として内的昂揚を感じ劇作家として脱個人化を果たす」。要するにペソアの詩的宇宙は、三人の異名作家のテクストが作り上げる劇的交響詩、ひいては「ポリフォニー」なのである。
レジが『海の賛歌』に見た「劇的なるもの」とは、「ポリフォニー」だった。ある人間の内的変貌であり、内的対話であり、まさにそれは複数の人間の織りなすドラマであった。「ペソアが私をひきつけるのは多面性へと向かう存在の大きな広がりである」とこの詩篇を演劇化した理由を説明する。たしかにデ・カンポスは港のあたりを散策する一人の静かな人間であるが、入港し出港する船と広々とした海を眺めているうち体の内部では時化のときの海のように激しい動きが起こってくる。
{夏の今朝、ひと気の無い波止場で,独り/おれは港口へ目をやり、「得体の知れないもの」を見つめる/おれは見つめ、見ていて嬉しくなる/入港してくる貨物船は、小さく、黒く、はっきり見える}(渡辺一史訳)。
そのうちこの静かな男からは想像もできない激しい言葉が飛び出す。それは残虐な、サド・マゾ的な表現である。
{ああ、海賊たちよ!海賊たちよ!/その凶暴さにつながる無法への切望/(中略)おれをおまえたちのまえにひざまずかせよ/おれを侮辱し、おれを打て}
フィナーレに近づくにつれ、逆巻き、膨れ上がった波はおさまり、出港した船の影は水平線の彼方に消えてゆく。船の姿のない波止場には現実の時間が流れる。
{・・・・クレーンがゆっくりと旋回し/おれの魂の呆然とした沈黙のなか/おれにはなにかは分からない満たされぬ情動の円を描く}
かくしてデ・カンポスペソアの長編詩『海の賛歌』は収束するが、これを丹念に読めば、静から動へ、動から静へというドラマティックなイメージのつらなりを思い描くことができる。レジは作者を「複雑で、矛盾を抱えた詩人」とみなすが、こうつけ加えることも忘れない。「彼は矛盾の共存する地を耕し、ついには魂に血と皮膚と神経を与える」。
ポルトガル人の歴史意識、精神構造、生の形態を語るとき、「サウダージ」という言葉がよく使われるが、『海の賛歌』の解釈にこれをあてはめるとなるといささか紋切り型のそしりは免れまい。しかし詩人は内面をつき動かすものを「なにごとかへの郷愁」と呼んでいる。「サウダージ」とはそういうこころの動きであろう。では「なにごとか」とは何だろう。それは「定義できないもの」であり、「黙って受け入れなければならないもの」である。世界とは人間の内面とは無関係に存在する。それがペソアにとっては海のメタファーにほかならなかったのである。自己を語ってやまない『不安の書』は、ペソアを知る最適の書であるが、ここから一行とりだして、とりあえずの終わりとしたい。「理解するのを望まず、分析しない・・・自然を見るように自分を見る。野を眺めるように自分の印象を眺める―知恵とはこういうことだ」(高橋都彦訳)。