寺山修司著作集第2巻解説

 第2巻に収められているのはラジオドラマ、長編小説、短編小説、映画のシナリオである。ラジオドラマは聴覚を対象に書かれているにもかかわらず、視覚的であり、映像的である。『中村一郎』の冒頭はフェリーニの映画『81/2』を想起させる。イタリア映画ではいきなりヘリコプターにつるされたキリスト像が大空をまう。カトリック教徒にとっては充分スキャンダラスであり、おおぜいの市民が広場に集まってきて、像を見上げる。やがて市民ばかりか、物売りもやってきて、商売を始める。宣伝カーもやってきて、スピーカーから自社製品の名を連呼し、コマーシャル・ソングまでながす。「門前市をなす」キリスト教版である。そのかみイエスが激怒した場面である。考えてみれば、キリスト教は中世以降なんらかの形で商業主義と結びついていた。いまや多くの国家の財政を支えることに寄与している。ヨーロッパ各地の美術館を飾っている宗教画やキリスト教をテーマにした絵画を見れば納得できよう。
 ここで寺山の書いたラジオドラマを一瞥してみよう。
   S・E−町の現実音。
       広告スピーカーのアナウンス。
       車の警笛
子供 (ふいに大声で)あ、お母ちゃん、空を人が歩いてら。
   音楽―C・I
           タイトル・アナウンス
   音楽―F・O
   S・E−街ノイズ、オフで。
語り手 いやいや、さっきの子の言うことはでたらめなんかじゃないんです。
    私もたった今、見てきたばかりですからね。
    一人のやせた男が、昼さがりの青空をまるで俄か盲目かなんかのようにふらふら
    と歩いていました。
 効果音や音楽がはいるとこの光景はいきいきとし、目の前に浮かんでくるようである。やがて「空を歩く男」中村一郎は全国で、これを東京の事件とすれば、東京中で、すっかり有名になり、満都の話題を独占する。当然メディアは追っかけ、企業は商品宣伝にあやかろうとする。次回空を歩くときは自社のスーツを着、自社の靴を履くよう働きかける。流行は「イチローライン」と命名される。さらには「空を歩く男」といった流行歌まで作られ、街に流される。「イチロー狂想曲」が世を覆う。こうして中村一郎の意思とは無関係に第二次空中歩行の計画が進められてゆく。寺山のペンは「現代社会」の風刺画を描き出す。
 しかしこれは風刺画にはとどまらない。じつは「奇蹟の構造」を物語化しているのである。新興宗教民間信仰でもさまざまな奇蹟が喧伝されているが、キリスト教でも長い間奇蹟の起こった地は聖化されてきている。「聖地」は数多くあるが、あたらしいところではポルトガルのファティマであろう。
 一九一七年五月十三日ポルトガルの寒村ファティマに聖母が出現した。貧しい羊飼いの子ども、三人の少年少女が、稲妻の光とともに後光につつまれた聖母が大空高くあらわれるのを見た。聖母は三人に優しく声をかけ、信仰心をいつまでももちつづけるようさとしたうえ、世界大戦の終結などいくつかの予言をした。子どもたちの言葉は村人にはじまりポルトガルの国民にも信じらるようになった。この神的な現象の噂はローカリティーを脱し、全世界のカトリック信者にひろがってゆく。ついにヴァティカンの教皇庁がのりだし、調査を始めた結果、この現象の正当性を認め、ファティマの地を聖化した。かくて毎年五月十三日は「聖母出現の日」として認定され、大聖堂が建立された。毎年この日には多くの信者がここに集まり、ファティマは賑わうようになった。「...とさ」とつけくわえたい衝動にかられるほど、この物語は奇蹟譚のパラダイムにしたがっている。「マリア伝説」とはだいたいこんなものである。『中村一郎』は奇蹟生成の過程をあきらかにしている。
 そもそもカトリック権力は民間説話や伝承のうちでとりこむべきはとりこみ、公的に認可する。公認されるとカトリック本来の治癒や奇蹟の物語として信者に受容されることになる。いまやファティマの奇蹟もカトリックの暦のなかに組み込まれている。こうした操作は枚挙にいとまがない。残念ながら「中村一郎の空中歩行」は世俗的な国では聖なる物語とはならないが、寺山の語りに特徴的な「さかさまの世界」を現出させている。
 なぜ中村一郎は大空を歩くことになったのだろうか。かれは高層ビルのてっぺんから身を投げた。ところが空中高く舞い上がって、大空を逍遥するはめにおちいった。これはヘリコプターでつるされるキリスト像より神話的で、聖母の御公現に匹敵する。しかし聖母のまします天空は中村にとって地獄だった。こんな奇蹟を起こさなければ、かれの日常は幸福であり、ある意味で天国であった。「空中歩行」はかれに地獄の日々をおくらせることになってしまった。
 そういえば寺山の戯曲「アダムとイヴ」をおもいだす。ドラ息子をかかえる夫婦はあるトルコ風呂の三階に住んでいる。トルコの名は「エデン」。父は無職で、母はりんごで飢えをしのいでいる。まさに一家の住んでいる部屋は「地獄」で、階下で日々展開している快楽の部屋は「天国」であり、「悦楽の園」である。「地獄」が上にあり、「天国」が下にあるという構図は、『中村一郎』にも見出すことができる。中村は最後につぶやく。「幸福は平凡な毎日の中にしかないんだよ」と。大空の奇蹟は「地獄」であり、地上の日常が「天国」なのである。
 寺山はこの「さかさまの世界」をいたく気にいったらしく、翌1960年に書いたラジオドラマ「大人狩り」のコンセプトにしている。ラジオドラマはすぐとテレビドラマのシナリオとなり、さらに映画となっている。『トマトケチャップ皇帝』の原型である。作者がいかに気にいっていたかの証左である。
 1967年に製作されたイギリス映画に『ダウンタウン物語』という作品がある。監督はアラン・パーカー、主演のひとりはは若き日のジョディー・フォスターであるが、登場人物はすべて子どもというギャング映画。三十年代のニューヨークで、ギャング同士の残虐な抗争がくりひろげられるが、映画ではこれが全編子どもたちによって演じられる。ギャング映画はパロディー化されることによって、かえって地下社会のばかばかしさと滑稽さを浮き彫りにする。寺山は『大人狩り』のノートでこんな予見的なことを言っている。「...これが寓意だとはだんだん思えなくなってきた。今や、{子供}は{子供}であるというだけで暴力的表現を内包してしまったからである。」現代の刃傷沙汰報道を読むにつけ、六〇年に二十一世紀社会を透視していたことになる。『ダウンタウン物語』はギャングの世界の話だったが、『大人狩り』は日本の一般社会を舞台にした寓話である。それだけにリアリティーを映し出す鏡の役割をはたしている。鏡像、ひいては虚構が現実の換喩であるという寺山の思想が前面にでている。
 この作品は耳で聞くドラマとして書かれたものであるが、ここに収められているのはテレビドラマである。だから「テレビ指定席中止」という字幕がはいってから始まる。『テレビ指定席』のかわりに放映中の番組名が載せられてもかまわない。かつてオーソン・ウエルズがラジオの聴取者を脅かした手法によく似ている。番組の途中に突然臨時ニュースがはいるという効果を作者はねらっていたのだろう。
「大変なことになったものです。本日午後七時えお期して、東京全部の子供たちが(大人狩り)に立ち上がったのです。」という解説者が画面に登場する。子供たちは東京を占領し、「大人」を収容所に入れる。単なる反抗期の子供の行為かと思われたが、さにあらず、子供たちは「革命」を起こそうとしている。かれらの目的は「子供共和国」の樹立・独立し、国連への加盟もはかっている。コミカルな台詞や場面がいっぱいつまっているが、さしあたり「子供たちの、子供たちによる、子供たちの政治」という子供集会の宣言は卓抜なアイデァの最たるものであろう。やがて子供共和国は日本政府と平和共存するための条約を結ぶところで幕切れになりそうになるが、実はこれが「ごっこ」であるという様相を呈してくる。「ごっこ」という戯れの行為が、日常の演劇性を規定するタームとしてもてはやされ、一時期劇作家がこれを愛用したが、こうした概念を提出したの最初のひとりは寺山修司であった。しかしかれは世界の「ごっこ性」に満足せず、その背後にある原風景を求め、表現をあたえてゆく。
「原風景」が存在の形式を規定するものかどうがさだかではないが、寺山の場合、青森の「原風景」はフィクショナルなトポスの裂け目から姿をのぞかせる。実在の故郷は仮の故郷である新宿と拮抗する。映画『田園に死す』の最終シーンで「私」はいう。「生年月日、昭和四十九年十二月十日。本籍地、東京都新宿区新宿字恐山!!」少年と母はちゃぶ台をはさんで板の間に坐っている。ふたりの背後の押入れが突然向こう側に倒れる。すると都会の風景―車がはしり、人々の行き交う新宿の街がかわって現れる。青森は新宿と通低していたのである。
映画は一九七四年に製作されているが、「恐山」はすでに十数年も前に輪郭をはっきりさせてきていた。おそらく寺山の意識の内部ではものを書くはるか以前から息づいていたにちがいない。「恐山」は少年期から寺山を呪縛していたにちがいない。「恐山」は言語によって浮上するのを待っていた。だから『大人狩り』の翌年にはもう『恐山』というラジオドラマが出現するのである。以後「恐山」は寺山の存在のすべて、「家」、「母」、「女」、「妻」、「友」を含むすべてを象徴するようになる。
「恐山」まず言語化されてのち映像化される。『山姥』に登場する山は「恐山」とは名づけられてはいないが、そう考えてもかまわない。というのは六四年に発表されたこの『ラジオのための叙事詩』の冒頭に掲げられた二首の和歌、「大工町米町寺町仏町老母買う町あらずやつばめよ」と「新しき仏壇買いに行きしままほろほろ鳥と倅帰らず」は、六六年に出版された歌集『田園に死す』の『恐山全景・少年時代』に収められているからである。ただ後者の歌は、「買いし」が「買ひし」と旧カナにされ、「ほろほろ鳥と倅帰らず」が「行方不明のおとうとと鳥」と修正されている。そしてこの二首がそのまま映画『田園に死す』(七四年)のタイトル以前にあらわれ、エピグラフとなる。観客二首の和歌は通低奏音として映像の背後に聞き取らざるをえない。
さらに「恐山」の意味を追いかけてゆくと、ここは、「天国」「地獄」という二項対立的な境界の不分明なトポスの役割をはたしていることを知らされる。二つの対立概念は入れ替え可能でさえある。死は生のなかに、生は死のなかにというインターラクティヴな関係がうまれている。「生が終わって死がはじまるということはない。生が終われば死も終わるのだ。死は、いつでも生につつまれている」と「九州鈴慕」のある登場人物は言う。ここらあたりに寺山の「イマーゴ・ムンディ」に「バロック的なもの」を発見するきっかけがありそうだ。
ここで「バロック的なもの」というとき、西欧の歴史的概念にはかならずしも忠実ではない。それを拡大解釈し、日本の思想ないしは世界像に適用しようという試みをふくんでいる。「バロック」を構成する要素はあまたあると思うが、さしあたり「対立概念の入れ替え可能性」を、主要なものとみなすことができる。寺山にあっては、そのありかを指摘するのは比較的容易である。まず「生」と「死」の関係をおもいつく。かれの作品では「生者」の世界に「死者」が、「死者」の世界に「生者」がしばしば登場する。周知のように、「恐山」には「いたこ」と呼ばれる巫女・霊媒がいる。彼女らには「死者」を呼び出す超能力が備わっている。
『恐山』の良太も「いたこ」と出会って、死んだ姉を呼び出してもらう。この山では死者と対話できる。死者は生きていると同時に生者は死の世界を体験できる。良太が思慕していた和代というすでに冥土に来ている女性とも出会う。和子は「夢ではないのよ。これがほんとなのよ」という。「いたこの口寄せ」にひっかかと思った良太は老女を絞め殺そうとする。しかし「夢だと思っていたことが現実で現実だと思っていたことが夢であったか」と良太は悟り、絞殺をやめる。「恐山」は「生」が「死」であり、「死」が「生」であり、「夢」が「現実」であり、「現実」が「夢」であるようなトポスであるが、寺山はこれを世界全体にあてはめてゆく。ここから「うそ」と「ほんと」、「ごっこ」と「人生」、「幻想」と「現実」、「虚構」と「実在」といった寺山好みの対概念がどんどんと増殖してゆく。
また「恐山」は「死」と「再生」のトポスでもあった。村の老人は良太に言う。「生まれ代わるためには、死なねばならねえんだ!」。「死ぬのはいやだ」と山へ行くのを拒否する良太に「いやでも恐山は呼んでるだど!」と老人は説得する。「恐山」はイニシエーションの場でもあった。良太はここで儀礼を経験してから村をはなれ、都市へと出て行った。
さらに「恐山」にこだわると、寺山は戯曲『十三の砂山』の冒頭に「和讃恐山」をおく。
    十にも足らぬ幼な子が、さいの河原に集まりて、峰の嵐の音すれば、
    父かと思いよじのぼり、谷の流れをきくときは、母かと思いはせ下り
という詞章がある。ここにも「恐山」のバロック的イメージを想像することができる。かれの実人生に則していえば、不在の父は現実化し、実在の母は幻想化している。「現実」と「幻想」とがないまぜになった、境界のさだかならない風景が目のまえに浮かんでくる。結局かれの父と母は「現実」と「幻想」の織りなす想像的存在だった。とくにその生涯にわたって実在した母親は、まさにそうした存在で、かれも極力「幻想化」、ひいては「虚構化」しようと努力したふしが感じらる。
 しかし映画『田園に死す』の最後、「私」のナレーションがオフで聞こえてくる。「たかが映画の中でさえ、たった一人の母も殺せない私自身とは、いったい誰なのだ?」 これは自分のアイデンティティを求める試みというより、寺山の母に対する愛情と憎悪の万力にしめあげられた声と読みたい。対立する概念の止揚への道を探ろうとしたが、はたせなかった、いうなれば絶望の言葉であるが、しかし愛情と憎悪を等号でむすべば、この問題には簡単に決着がつくということもかれは知っていた。したがって、ホモ・セクシュアリティや近親相姦といった禁忌も大半の生のアポリアもこの方法でもって解決できるというオポチュニスムをかれはもっていた。『ああ、荒野』は都会の底辺に住む男たちの、明るい未来の見えない長い物語であるが、全編にこのオポチュニズムが流れていて、開放的なボクシング小説となっている。ボクサー同士の闘いに愛憎の方程式が適用されているところなどやはり「恐山」とどこかでつながっている。
 寺山の世界像を特徴付けているもうひとつの大きなバロック性は「レトリック」であろう。歴史的にはバロック性とは「異なるものの美」を認めるところから出発したのであるが、相反する概念や現象をを同一的な意味の次元に置こうとする「レトリック」をも重視した。
 二十世紀に目覚しい活動をしたイタリアの哲学者にベネデット・クローチェがいるが、かれは定説となっていたバロックポルトガル語々源説に異をとなえ、イタリア語々源説を主張した。十六世紀になってネオロジスムとして流行し始めた「バロック」の語は、「条理にあわない議論」の意味で詩文などに使われたという(「イタリアにおけるバロック時代の歴史」)。「条理にあわない議論」とは、「条理にあう結論」に達する出発点だった。意味不明な前提から出発し、論理的な議論を展開し、真理にいたるという三段論法のパロディーであった。しかしそれは「レトリカ」と呼ばれる修辞学の伝統でもあった。この論法によって詩人はふたつの異質なメタファーを見事にあるひとつのメタファーに仕立て上げる技をもっていた。これは「芸当」であり、「レトリック」でもある。バロックの詩人はこうした言葉の技術を用いて、「生」と「夢」や「生」と「風」などを組み合わせて、新しいメタファーを作ってみせたのである。「みやび」と「野生」、「宮殿」と「廃墟」といった組み合わせをうまくまとめた詩人は声望が高かった。鬼面人を驚かせるようなメタファーを考え付かなければならなかった。文章家には「言語の錬金術」が求められたのである。
 十七世紀ヨーロッパのバロック時代にあって詩人文人たちは宮中で禄をはみ、求めに応じては文章を生産していた。現代日本にあって企業に奉仕し、生活の資をかせぐコピーライターのようなステータスだった。寺山はもちろんそんなステータスは拒否していた。かれは生来すぐれた言語感覚の持ち主であり、成長にしたがってレトリックの技を磨いていった。その才能とレトリックの技から目をみはるようなアイディアが生まれてきた。呻吟はあったかもしれない、もじりはあったかもしれない、反復もあったかもしれない、しかし想像力の泉からはこんこんと新鮮なアイディアの水が湧き出てくるような印象をうけた。
 『山姥』の老婆は山中に捨てられて、死を迎えたあとからすの餌食になるのではなく、人知れず山姥となって楽しく老いの日々を暮らす。暗い「姥捨て伝説」は明るい「山姥伝説」に仕立てられている。この「仕立て」こそ寺山のユニークなコラージュである。説話や伝説、戯曲や小説を解体して、そこから拾い上げた既成の材料を使って、一編の新しい作品を仕立ててしまう。創造をうながすかれ独特の方法論がこれであった。
 『山姥』につづく『九州鈴慕』、『狼少年』は詩的な文章でつづられたラジオドラマであるが、以後の短編・長編の小説と映画をみるかぎり、これが原点であり、原風景であると断じることができる。フォークローアと「現代」が渾然一体となった物語が生み出されている。たとえば『狼少年』の「ばあさん」が、「捨てた子供が三途の川で/親の名前を呼ぶころに/赤いべべきてクシさして/親はゆきます、みやこ路を...」と語るとき、読むものは詩章の流麗さに陶然とする。作者生得の言語感覚の開花を見る思いであり、これが和歌の水流を形成していることを知らされる。和歌はかれの詩魂の心底から沸き上げってきた声であり、これは映画『田園に死す』までとぎれることはない。
 ラジオドラマを過ぎると、『人間実験室』をのぞいて、『花姚記』、『浪曲新宿お七』『さらば黒馬』といった短編小説の世界へと創造の場は移行してゆく。もう「お母さん」という心の奥底からしぼりだされるような呼びかけの声は聞こえてこない。かわって「ウエルメードな結構」の世界がおめみえし、そこここで「レトリカ」が閃光を放つ。
「美にはいつも何かが欠けている」と信じている小説の主人公は不具者を常に装っている、血液とは肉体という配電盤に流れる電流である、などといった表現や、江戸に火を放った八百屋お七の物語を、国会に突入する反体制活動家に恋する風俗嬢の放火に見立てる語りは「レトリック」の発露である。なかでもレトリカルだと思わせるのは、「ああ、荒野」のボクシング・シーンである。リングの上で闘うバリカン無宿と新宿新次の内面描写につよくあらわれる。秀逸なボクシング論を書いたアメリカの女性作家ジョイス・C.オーツは「固定化された概念とは反対に、ボクシングとは、なによりもまず、傷ついている、という状態なのであり、傷つけることではない」というが、寺山もKOされるバリカンに勘定移入している。かれはそもそも傷ついた男に魅せられていたのだ。ボクシングでは「傷」は即物的な現象である。寺山がボクシングすきだったのもそのせである。ボクシング映画『サード』のアイディアもここから生まれたのだろう。
ラジオドラマのデビューとなった、五十年代末の『中村一郎』から多彩な創作活動が展開され、二十数年の時間がすぎた。その間劇作家・演出家としても国際的に「テラヤマ」の名は知れわたり、日本の前衛的、現代劇を語る場合、不可欠の演劇人となった。ただ正直言って映画作家としての知名度はまだ広がりはそれほどなかった。七十年代には映画の領域でヨーロッパに刺激をあたえようと準備をしていた。映画『書を捨てよう、街を捨てよう』をパリに映画配給会社に移してまわっていた。私が寺山に出会ったのもこのころだった。
こうして何本もの長編を撮ったすえ、『さらば箱舟』へと到達した。しかしこれが遺作となってしまった。一般公開の日を待たずに寺山は他界した。この作品以後さまざまなプロジェクトもあり、こと映画に関してはやり残したことが多いという思いを生の終わりまでいだいていたようだ。このシナリオはかれ最後のメッセージだった。
この遺作を作るにあたっては当初ガルシア・マルケスの小説『百年の孤独』のシナリオ化する計画を寺山はたてていたが、版権などの問題からそれがかなわなかった。そこでこの小説に想を得た独自の、まったく新しいシナリオを書くことになった。近代文明から隔絶した村コロンビアのマコンドは、『さらば箱舟』では「百年村」となっている。「百年村」がどこにあるかはシナリオを読む限り明らかではないが、映画を見るとロケ地は沖縄であることがわかる。ここで注目すべきは舞台が青森を離れ、どことは知れない島となっていることである。しかし青森=東京に代わって本土(文明の地)と沖縄(フォークロアの地)という対立が想定されている。時代は限定されていないが、時間が無時間のトポスに侵入してくるところをみると近代の夜明けである明治初期と考えられる。「時間」とともに、ランプ、電話機、写真機が文化果つる島に侵入してくる。近代以前から続いている時任一家の家系は文明の到来とともに、終焉をつげる。村に情報と活力を与えてきた旅芸人たちの訪れ、死者は生者として生きている日常、近親相姦さえ厭わない習俗などすべてのフォークロリークなものは消滅してゆく。
映画の最終シーンでは村人全員、死者も生者も、旅芸人のめんめんも、村の空地に集合して、冒頭「時間」を捨てていた鋳掛屋が銀板写真の被写体となる。しかしもうみな過去の装いしていない。これでは「現代」が記録されたことになるのではないか。をしている。
いやそうではない。「彼ら皆、現代人の服装をして死を生きているのである。」こうして「百年村」最後の記憶が一枚の写真に定着された。