チネチッタ

七十年代には地下鉄がなかったのでチネチッタへゆくにはヴィーア・トゥスコラーナという長い街道をかなりの時間車で走らねばならなかった。しかしいまではローマ駅、通称「テルミネ」からAラインで、「アナニーナ」行きに乗れば数十分で着く。終点のひとつ手前が「チネチッタ」駅である。
私がかつて訪れたころ、周辺は広々とした野原だったのに、いまでは「アメリカン・エクスプレス」の近代的ビルディングやショッピング・モールそのほかマンション群が建っており、「ヨーロッパのハリウッド」とかつて呼ばれた面影はない。時代遅れの古めかしい外観をさらしている。それでもテレビドラマの撮影にはよく使われているという。邦画『アマルフィ』のセットもここに作られたと聞く。現在は一般公開していないので、撮影にかかわる人たちしか立ち入りを許されていない。日本文化会館の松永館長がじきじきお電話し、研究目的の見学といってくれたのであるが、やはり許可はおりなかった。いまや営利目的の貸しスタジオになってしまったようだ。
フェリーニがこの撮影所をこよなく愛したことはよく知られている。『インテルヴィスタ』はチネチッタそのもを撮影対象としている。フェリーニ得意のメタシネマである。1993年10月不世出の映画作家は最後の息を引き取る。その死を悼んで、遺体はチネチッタに運ばれた。そのときの情景をトゥッリオ・ケジチはこう記している(『フェリーニ、映画と人生』−押場靖志訳)。
「映画監督にはオスカー像を受け取った夕べに来({着}の誤植?)ていたタキシードが着せられると、その棺は、十一月二日、最後の別れのために、故人の愛したチネチッタ第五スタジオの『インテルヴィスタ』で用いられた真っ青な背景幕の前に設置される」。棺を乗せた車がチネチッタを離れるとき、クラクションをなんども鳴らしたという記事を新聞で読んだ記憶がある。と同時に「今度は長い旅でしょう」と自分の死について語っていたのも思い出される。
さてチネチッタの歴史であるが、1937年ムッソリーニの臨席を得て、オープンの日を迎えた。ファシズムの広報についてはドゥーチェはラジオよりも映画の宣伝効果が大きいことを認識した。「映画は最大の武器である」と演説で語った。当初は劇映画ではなく、ドキュメンタリーやニューズ映画に力をいれた。文書を読む能力の高くはない大衆は映像ならすぐ理解するという事実に気がついたのだ。LUCE構想がうちだされた。LUCEとは“L’Unione Cinematografica Educativa”の略語であった。「光」の意味もあるので、ファシズム理解に光をあてようとする含意があったかもしれない。キリスト教においては天井からさす光は「神の光」であり、「神の意志」であった。歴史上この光を受けて「聖人」となったキリスト者がいた。「スティグマ=聖痕」とは神が意志を伝えた証拠である。ムッソリーニは自分の意志をよもや神のそれと比較するつもりはなかったと思うが、「光」こそ体制の意志であると信じていた。映写機から放出される光はファシズムという福音を大衆に伝えた。
LUCEは映像によってファシズム教育を行うという制度だった。ファシズム宣伝の短編映画はフィルムの缶につめられて、電波も届かない地域にまで配送された。日本でも終戦直後は小中学校の運動場にスクリーンが張られ、映画が上映されたが、それと同じように、僻地にある村や町には映写機材が運びこまれ、広場や広い空き地ではファシズム・パフォーマンスやムッソリーニの映像が映し出された。LUCEの発足は1924年だからチネチッタの建設より十数年はやい。
ムッソリーニはやがて劇映画の宣伝効果へと着手する構想を実践に移そうとした。これはナチスが長編の劇映画によって大衆の意識下へも働きかけようとしていたことに影響をうけたものと考えられる。たとえば「美の祭典」や「民族の祭典」という映画によってナチズムの直接的なプロパガンダをあらわにせず、イデオロギーの美学的な側面を前面に出す方法を体制はとった。こうした映像を通してナチズムに独特な解釈を抱いた知識人層もいた。ムッソリーニはまず美学的な映像を送り出すより装置の建設へと乗り出した。この装置からファシズムの理念に裏打ちされた多くの映像が生まれるという確信をもった。記録よりもフィクションがLUCEよりチネチッタへという戦略になった。
チネチッタルイージ・フレッディというファシスト党幹部によって、準備・建設が進められた。彼は学校教育は受けてなかったが、十代の後半マリネッティの理論と行動に感化され、未来派運動に加わった。第一次大戦が勃発したとき、当然イタリアの参戦を求めるデモに参加した。本人も戦地に赴いている。
大戦が終結し、イタリアは戦勝国になったが、参戦の代償であるフィウメ領有などが米英仏から認められなかったので、詩人のダンヌンツィオがフィウメ占領の挙に出たことはよく知られている。この「義挙」にフレッディは義勇兵として参加している。さらに「義挙」失敗のあとは、ファシストの「突撃隊」隊員になって社会党本部を攻撃している。ムッソリーニファシスト党を作り、「イル・ポーポロ・ディターリア」紙を創刊すると、しばらくして編集委員になっている。
1920年にはファシスト青年隊を組織し、その機関紙「ジョヴィネッツァ」の編集長にもなっている。’22年には党のプレス担当に任命された。フレッディはファシスト党結成の初期からの党員だったばかりか、突撃隊の創設にもかかわったりしていたので、党内での昇進も早く、要職を歴任していた。ファシスト政府は文化省の管轄にラジオと映画を加え、その映画局のトップに彼を据えた。ムッソリーニは‘37年文化省を「大衆芸術省」と命名した。この組織はMinCulPop(ミンクルポプ)の略称で呼ばれ、積極的に国民の文化活動に介入した。ムッソリーニはフレッディを二十年代末にアメリカに派遣し、ハリウッドを視察させた。映画を国策とする腹案がドゥーチェに生まれてきた。ロシアやドイツの文化政策が視野にあったからだろう。メガロマニアであったムッソリーニはヨーロッパ最大の映画撮影所を作ろうとひそかに考えていた。「ミンクルポプ」創設の前年撮影所の建設が始まった。設計は建築家ジーノ・ペッレスーティに任された。
広大の敷地はチネスという映画会社の所有していた撮影所の跡地だった。チネスは’06年創立のイタリアで最も古い映画製作会社のひとつで、数々の大作を世に送り出している。最初のトーキー・フィルムもチネスの製作である。しかし三十年に入ると、業績はおち、’35年には映画製作を中断してしまった。さらに悪いことには翌年火災で撮影所の建物などすべて焼失してしまった。そこに目をつけたのが「ミンクルポプ」だった。チネス撮影所の跡に国家の運営になる、ヨーロッパ最大の新しい撮影所が出現した。それが「チネチッタ」だった。
一つの撮影所では一本の作品の撮影が常識であったが、「チネチッタ」では複数の映画の撮影が可能であった。1939年にはすでに十棟のスタジオがあった。敷地は当初より拡大された。60ヘクタールから140ヘクタールとなった。フレッディはチネチッタでは「ミンクルポプ」の映画局長の肩書きで関与していたが、やがて所長に昇格する。‘36年ムッソリーニの女婿ガレアッツォ・チャーノが外相となり、イタリアの国際的地位をあげることに努めた。この年イタリアは対エチオピア戦争に勝利し、このアフリカの国を併合する。国内は祝賀ムードに溢れ、おおくの大衆歌謡が作られ、歌われた。「Faccetta Nera」(「可愛いクロんぼちゃん」とでも訳せようか)。ムッソリーニは栄光の頂点にあった。
始動したばかりのチネチッタでもイタリアの勝利を記念する映画を製作するようにムッソリーニは命じた。’26年には『ポンペイ最後の日』という大作を監督したカルミネ・ガッローネに製作がゆだねられた。それが『スキピオ・アフリカヌス』(『アフリカのスキピオ』だった。ハンニバルに打撃をあたえ、北アフリカを手中に収めた大スキピオに自らを喩えた。ファシスト・イタリアは古代ローマに比肩するとムッソリーニは誇った。「スキピオ・アフリカヌス」は「国家の偉業」をしらしめる大型時代劇で、まさにチネチッタで撮影されるにふさわしい作品だった。
こうしてフレッディの時代が始まった。かれは’40年に功績を認められて「チネチッタ」の所長になった。ムッソリーニの映画政策にはナチス・ドイツで国内ばかりか対外的にもおおきな宣伝効果をあげたゲッベルスのそれを模倣している。‘33年に製作されたナチスプロパガンダ映画「ヒトラー青年」はベルリンの大きな映画館で上映され、国民を熱狂させた。封切りの一週間前には総統に特別試写が催おされた。ナチス・ドイツで製作されたドイツ映画はイタリアでもおおく公開され、アメリカ映画の輸入本数にせまるくらいだった。ムッソリーニはなぜそれがファシスト・イタリアでもかのうではないかのかと問いかけた。三十年代のイタリア映画はソヴィエト映画の理論が参照され、製作の形態や公開の方法にはナチス・ドイツに従った。「チネチッタ」はアメリカの「ハリウッド」に学んだ。ファシズムとはエクレクティックで、磐石の統一的なイデオロギーがなかった。
‘40年には「映画実験センター」の所長にはフレッディと親しかったルイージキアリーニがなり、施設も「チネチッタ」のなかにおかれた。キアリーニはヴェネツィア映画祭をおこし、その委員長にもなっている。またオエープリ社から出版された「チネマ」という隔月間の雑誌の編集長には’37年ムッソリーニの息子ヴィットリオが就任している。
ネオレアリズモの母体となった「ビアンコ・ネーロ」誌もまたこの時期に出来ている。



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