聖地・トキワ荘

 「聖地」というとどこか神がかったところがあるが、トキワ荘はボロ屋だったようである。劇中の秋森(石森、のちの石ノ森章太郎)の独白によると「四畳半風呂なし、共同トイレに共同台所,油虫南京虫の同居人のおまけ付き。」といったアパートだった。本作では名前は変更されているが、ここに手塚治虫赤塚不二夫、藤子不二男、水野英子、それに上記の石森章太郎などやがてかくかくたる盛名に輝く漫画家たちが住んでいた。これが現在「聖地」と呼ばれるゆえんであるが、六十年代はじめ手塚治虫の原稿を取りにいっていた集英社の漫画担当編集者にとってはただのひなびたアパートで、それが「聖地」と呼ばれるようになったのを知って彼は驚きを隠さなかった。母親と同居していた漫画家もいたという。
 手塚を育て、手塚も恩義を感じていた「漫画少年」の編集者加藤謙一が内山啓という名で出てくる。漫画雑誌は「漫画王国」となっている。ついでながら彼は石森章太郎も発見したことになっている。締め切りをすぎて悪戦苦闘している手塚の原稿を待ちながら石森の漫画を見て、「天才」と叫んでいる。私は六十年代東映パリ駐在員をしていたときに、石森の『サイボーグ009』(『ナンバー・ナイン』とはいってなかった)のアニメをフランスに売り込んでいたことがあった。東映は『西遊記』『白蛇伝』『シンドバッドの冒険』『アンデルセン物語』などの長編動画を製作していた日本における唯一の映画会社だったが、ディズニーがあったためまったく相手にされなかった。フランス人も石森を「天才」とはみなかった。『007』シリーズの大ヒットをとばしていたアメリカのユナイトからクレームがついて結局石森アニメは売れなかった。宮崎駿もいた東映動画は一顧だにされなかった。ヨーロッパが日本の漫画やアニメの意味をわかり始めたのはずっと後のことだった。
 ところで加藤=内山は戦前講談社発行の「少年倶楽部」の編集長だったが、それがたたって敗戦後はブラック・パージになり、講談社を退職せざるをえなかった。そこで創立した会社が学童社で、「漫画少年」を創刊した。昭和二十二年だった。この雑誌が現在の漫画発展の基礎となった。ただ残念ながら昭和三十年十月号をもって廃刊となった。週六百万部という漫画雑誌市場未曾有の発行部数を記録した「少年ジャンプ」の版元集英社は「おもしろブック」から「少年ブック」を経て「ジャンプ」へという肥大化の道を進みつつあったし、その一方講談社小学館秋田書店といった大手出版社なども大部数を誇る漫画雑誌をだしていった。簡単いえば漫画市場は学童社を排除し、大手による寡占化を求めた。
 この芝居は{昭和三十年、東京都豊島区椎名町 アパート「トキワ荘」}の物語である。「漫画少年」が最終号を出す寸前だった。トキワ荘の住民は最終号の見本刷りを手にし、歓喜の声をあげるあたりで終わるが、トキワ荘はそれからまだ七年存続し、伝説化する。そして今や「神話」として語りつがれている。アパートはすでに解体されているが、その地きっといまでも磁力を放っているにちがいない。

トキワ荘の夏」(作・演出:竹内一郎


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