Upon Shuji Terayama

Upon Shuji Terayama
Sibiu International Theatre Festival lasted for 2 weeks.I attended it to realise there were various tendencies in the theatrical style.Chinese theatre group performed Ibsen’s “Hedda Gabler” in the traditional style and Radu Stanca Gozzi’s “Turandot” as a Nazi play.Some audiences are for and others against.As to any performances in the theatre,so many men,so many minds.The same with a history of Japanese theatre,especially “Shingeki”(New Theatre)after Meiji Restoraration(1860).
Theare was a very important lecture on the hisory of Shingek by Oriza HIrata,a leader of company “Seinendan” who is very influential in the young generation theatre group.He criticized theatrical movement of former generation from various points of view.I will not talk about the details because arguments are so complicated.
Generally speaking,it is recognised there is a creator called Shuji Terayama who is out of the current of new theatre after the war.Most men of theatre manifest marxist and socialist thoughts by creating and playing theatres.But he is different and isolated.He went his way with his company “Tenjousajiki(Gallery at the top of the theatre)”.
 He was born in 1935 at Hirosaki city in the nothern part of Japan.They recognized he was so talented in poetry already in his teens and published a lot of Haiku and Tanka(Japanese traditional short poems) on the local letterary magazines.At he age of 18, he went up to Tokyo to enter Waseda university.Since then he spread his litterary world.In 1960 at a director’s request,he wrote a play for the first time.The title is "Bloody Youth" in which he described a group of young men living in the bottom of society.As he sometimes persuaded young men to try runaway from house on his essay,he sympathized with them even in this play.but unfortunately this pkay was not succesful and had not been staged for long time.Last year it was finally staged.Perhaps ouwing to failure of "Bloody Youth",few producers and directors ordered him to write plays.Then he wrote many radio dramas and short expermental piece.Moreover he started to make some short films.Some radio dramas were awarded overseas.He stared to be recognized as a multi-talented creator.
Unfortunately he was not recognized to be a playwright and at the age of 31(1967) he founfed a theatrical laboraroy called “Tenjosajiki”(G allery at the top of theatre).Since foundation of his theatre,his theatre activities got fruitful.He wrote "A Hunchback in Aomori(his native land),”A Crime of a fat woman”,Mary in fur”,etc.
In 1968 he published some plays like “A Thousand and one night story Tokyo version”,”Seven crimes of a countess”,”Blue Beard”,”A Little Prince”etc. As titles are evident,he got inteested in parodies of well-known classical piece of the world.He tried to rewrite them into his works.Most of them are wtty and Japanised.They don’nt depend on words but on visuality.He started to communicate with audiences not by expressing literary words but showing specutaculity.We are accustomed to the traditional spectaculities in Kabuki but we know the New theatre rejects them and we recognize theatre is an art of word.When Terayama got to emphasize some spectacular elements of theatre,his way of making theatre has not benn taken for authentic.Thisis why Terayama continued to make theatre outside the New Theatre.Since then he went on to consolidate his theory:”theatre is spectacle.His performannces have been appreciated overseas.I can numerate his works awarded in western contries in the coming report and will introduce some discussions for Terayama’s thought on theatre.



チネチッタ

七十年代には地下鉄がなかったのでチネチッタへゆくにはヴィーア・トゥスコラーナという長い街道をかなりの時間車で走らねばならなかった。しかしいまではローマ駅、通称「テルミネ」からAラインで、「アナニーナ」行きに乗れば数十分で着く。終点のひとつ手前が「チネチッタ」駅である。
私がかつて訪れたころ、周辺は広々とした野原だったのに、いまでは「アメリカン・エクスプレス」の近代的ビルディングやショッピング・モールそのほかマンション群が建っており、「ヨーロッパのハリウッド」とかつて呼ばれた面影はない。時代遅れの古めかしい外観をさらしている。それでもテレビドラマの撮影にはよく使われているという。邦画『アマルフィ』のセットもここに作られたと聞く。現在は一般公開していないので、撮影にかかわる人たちしか立ち入りを許されていない。日本文化会館の松永館長がじきじきお電話し、研究目的の見学といってくれたのであるが、やはり許可はおりなかった。いまや営利目的の貸しスタジオになってしまったようだ。
フェリーニがこの撮影所をこよなく愛したことはよく知られている。『インテルヴィスタ』はチネチッタそのもを撮影対象としている。フェリーニ得意のメタシネマである。1993年10月不世出の映画作家は最後の息を引き取る。その死を悼んで、遺体はチネチッタに運ばれた。そのときの情景をトゥッリオ・ケジチはこう記している(『フェリーニ、映画と人生』−押場靖志訳)。
「映画監督にはオスカー像を受け取った夕べに来({着}の誤植?)ていたタキシードが着せられると、その棺は、十一月二日、最後の別れのために、故人の愛したチネチッタ第五スタジオの『インテルヴィスタ』で用いられた真っ青な背景幕の前に設置される」。棺を乗せた車がチネチッタを離れるとき、クラクションをなんども鳴らしたという記事を新聞で読んだ記憶がある。と同時に「今度は長い旅でしょう」と自分の死について語っていたのも思い出される。
さてチネチッタの歴史であるが、1937年ムッソリーニの臨席を得て、オープンの日を迎えた。ファシズムの広報についてはドゥーチェはラジオよりも映画の宣伝効果が大きいことを認識した。「映画は最大の武器である」と演説で語った。当初は劇映画ではなく、ドキュメンタリーやニューズ映画に力をいれた。文書を読む能力の高くはない大衆は映像ならすぐ理解するという事実に気がついたのだ。LUCE構想がうちだされた。LUCEとは“L’Unione Cinematografica Educativa”の略語であった。「光」の意味もあるので、ファシズム理解に光をあてようとする含意があったかもしれない。キリスト教においては天井からさす光は「神の光」であり、「神の意志」であった。歴史上この光を受けて「聖人」となったキリスト者がいた。「スティグマ=聖痕」とは神が意志を伝えた証拠である。ムッソリーニは自分の意志をよもや神のそれと比較するつもりはなかったと思うが、「光」こそ体制の意志であると信じていた。映写機から放出される光はファシズムという福音を大衆に伝えた。
LUCEは映像によってファシズム教育を行うという制度だった。ファシズム宣伝の短編映画はフィルムの缶につめられて、電波も届かない地域にまで配送された。日本でも終戦直後は小中学校の運動場にスクリーンが張られ、映画が上映されたが、それと同じように、僻地にある村や町には映写機材が運びこまれ、広場や広い空き地ではファシズム・パフォーマンスやムッソリーニの映像が映し出された。LUCEの発足は1924年だからチネチッタの建設より十数年はやい。
ムッソリーニはやがて劇映画の宣伝効果へと着手する構想を実践に移そうとした。これはナチスが長編の劇映画によって大衆の意識下へも働きかけようとしていたことに影響をうけたものと考えられる。たとえば「美の祭典」や「民族の祭典」という映画によってナチズムの直接的なプロパガンダをあらわにせず、イデオロギーの美学的な側面を前面に出す方法を体制はとった。こうした映像を通してナチズムに独特な解釈を抱いた知識人層もいた。ムッソリーニはまず美学的な映像を送り出すより装置の建設へと乗り出した。この装置からファシズムの理念に裏打ちされた多くの映像が生まれるという確信をもった。記録よりもフィクションがLUCEよりチネチッタへという戦略になった。
チネチッタルイージ・フレッディというファシスト党幹部によって、準備・建設が進められた。彼は学校教育は受けてなかったが、十代の後半マリネッティの理論と行動に感化され、未来派運動に加わった。第一次大戦が勃発したとき、当然イタリアの参戦を求めるデモに参加した。本人も戦地に赴いている。
大戦が終結し、イタリアは戦勝国になったが、参戦の代償であるフィウメ領有などが米英仏から認められなかったので、詩人のダンヌンツィオがフィウメ占領の挙に出たことはよく知られている。この「義挙」にフレッディは義勇兵として参加している。さらに「義挙」失敗のあとは、ファシストの「突撃隊」隊員になって社会党本部を攻撃している。ムッソリーニファシスト党を作り、「イル・ポーポロ・ディターリア」紙を創刊すると、しばらくして編集委員になっている。
1920年にはファシスト青年隊を組織し、その機関紙「ジョヴィネッツァ」の編集長にもなっている。’22年には党のプレス担当に任命された。フレッディはファシスト党結成の初期からの党員だったばかりか、突撃隊の創設にもかかわったりしていたので、党内での昇進も早く、要職を歴任していた。ファシスト政府は文化省の管轄にラジオと映画を加え、その映画局のトップに彼を据えた。ムッソリーニは‘37年文化省を「大衆芸術省」と命名した。この組織はMinCulPop(ミンクルポプ)の略称で呼ばれ、積極的に国民の文化活動に介入した。ムッソリーニはフレッディを二十年代末にアメリカに派遣し、ハリウッドを視察させた。映画を国策とする腹案がドゥーチェに生まれてきた。ロシアやドイツの文化政策が視野にあったからだろう。メガロマニアであったムッソリーニはヨーロッパ最大の映画撮影所を作ろうとひそかに考えていた。「ミンクルポプ」創設の前年撮影所の建設が始まった。設計は建築家ジーノ・ペッレスーティに任された。
広大の敷地はチネスという映画会社の所有していた撮影所の跡地だった。チネスは’06年創立のイタリアで最も古い映画製作会社のひとつで、数々の大作を世に送り出している。最初のトーキー・フィルムもチネスの製作である。しかし三十年に入ると、業績はおち、’35年には映画製作を中断してしまった。さらに悪いことには翌年火災で撮影所の建物などすべて焼失してしまった。そこに目をつけたのが「ミンクルポプ」だった。チネス撮影所の跡に国家の運営になる、ヨーロッパ最大の新しい撮影所が出現した。それが「チネチッタ」だった。
一つの撮影所では一本の作品の撮影が常識であったが、「チネチッタ」では複数の映画の撮影が可能であった。1939年にはすでに十棟のスタジオがあった。敷地は当初より拡大された。60ヘクタールから140ヘクタールとなった。フレッディはチネチッタでは「ミンクルポプ」の映画局長の肩書きで関与していたが、やがて所長に昇格する。‘36年ムッソリーニの女婿ガレアッツォ・チャーノが外相となり、イタリアの国際的地位をあげることに努めた。この年イタリアは対エチオピア戦争に勝利し、このアフリカの国を併合する。国内は祝賀ムードに溢れ、おおくの大衆歌謡が作られ、歌われた。「Faccetta Nera」(「可愛いクロんぼちゃん」とでも訳せようか)。ムッソリーニは栄光の頂点にあった。
始動したばかりのチネチッタでもイタリアの勝利を記念する映画を製作するようにムッソリーニは命じた。’26年には『ポンペイ最後の日』という大作を監督したカルミネ・ガッローネに製作がゆだねられた。それが『スキピオ・アフリカヌス』(『アフリカのスキピオ』だった。ハンニバルに打撃をあたえ、北アフリカを手中に収めた大スキピオに自らを喩えた。ファシスト・イタリアは古代ローマに比肩するとムッソリーニは誇った。「スキピオ・アフリカヌス」は「国家の偉業」をしらしめる大型時代劇で、まさにチネチッタで撮影されるにふさわしい作品だった。
こうしてフレッディの時代が始まった。かれは’40年に功績を認められて「チネチッタ」の所長になった。ムッソリーニの映画政策にはナチス・ドイツで国内ばかりか対外的にもおおきな宣伝効果をあげたゲッベルスのそれを模倣している。‘33年に製作されたナチスプロパガンダ映画「ヒトラー青年」はベルリンの大きな映画館で上映され、国民を熱狂させた。封切りの一週間前には総統に特別試写が催おされた。ナチス・ドイツで製作されたドイツ映画はイタリアでもおおく公開され、アメリカ映画の輸入本数にせまるくらいだった。ムッソリーニはなぜそれがファシスト・イタリアでもかのうではないかのかと問いかけた。三十年代のイタリア映画はソヴィエト映画の理論が参照され、製作の形態や公開の方法にはナチス・ドイツに従った。「チネチッタ」はアメリカの「ハリウッド」に学んだ。ファシズムとはエクレクティックで、磐石の統一的なイデオロギーがなかった。
‘40年には「映画実験センター」の所長にはフレッディと親しかったルイージキアリーニがなり、施設も「チネチッタ」のなかにおかれた。キアリーニはヴェネツィア映画祭をおこし、その委員長にもなっている。またオエープリ社から出版された「チネマ」という隔月間の雑誌の編集長には’37年ムッソリーニの息子ヴィットリオが就任している。
ネオレアリズモの母体となった「ビアンコ・ネーロ」誌もまたこの時期に出来ている。



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聖地・トキワ荘

 「聖地」というとどこか神がかったところがあるが、トキワ荘はボロ屋だったようである。劇中の秋森(石森、のちの石ノ森章太郎)の独白によると「四畳半風呂なし、共同トイレに共同台所,油虫南京虫の同居人のおまけ付き。」といったアパートだった。本作では名前は変更されているが、ここに手塚治虫赤塚不二夫、藤子不二男、水野英子、それに上記の石森章太郎などやがてかくかくたる盛名に輝く漫画家たちが住んでいた。これが現在「聖地」と呼ばれるゆえんであるが、六十年代はじめ手塚治虫の原稿を取りにいっていた集英社の漫画担当編集者にとってはただのひなびたアパートで、それが「聖地」と呼ばれるようになったのを知って彼は驚きを隠さなかった。母親と同居していた漫画家もいたという。
 手塚を育て、手塚も恩義を感じていた「漫画少年」の編集者加藤謙一が内山啓という名で出てくる。漫画雑誌は「漫画王国」となっている。ついでながら彼は石森章太郎も発見したことになっている。締め切りをすぎて悪戦苦闘している手塚の原稿を待ちながら石森の漫画を見て、「天才」と叫んでいる。私は六十年代東映パリ駐在員をしていたときに、石森の『サイボーグ009』(『ナンバー・ナイン』とはいってなかった)のアニメをフランスに売り込んでいたことがあった。東映は『西遊記』『白蛇伝』『シンドバッドの冒険』『アンデルセン物語』などの長編動画を製作していた日本における唯一の映画会社だったが、ディズニーがあったためまったく相手にされなかった。フランス人も石森を「天才」とはみなかった。『007』シリーズの大ヒットをとばしていたアメリカのユナイトからクレームがついて結局石森アニメは売れなかった。宮崎駿もいた東映動画は一顧だにされなかった。ヨーロッパが日本の漫画やアニメの意味をわかり始めたのはずっと後のことだった。
 ところで加藤=内山は戦前講談社発行の「少年倶楽部」の編集長だったが、それがたたって敗戦後はブラック・パージになり、講談社を退職せざるをえなかった。そこで創立した会社が学童社で、「漫画少年」を創刊した。昭和二十二年だった。この雑誌が現在の漫画発展の基礎となった。ただ残念ながら昭和三十年十月号をもって廃刊となった。週六百万部という漫画雑誌市場未曾有の発行部数を記録した「少年ジャンプ」の版元集英社は「おもしろブック」から「少年ブック」を経て「ジャンプ」へという肥大化の道を進みつつあったし、その一方講談社小学館秋田書店といった大手出版社なども大部数を誇る漫画雑誌をだしていった。簡単いえば漫画市場は学童社を排除し、大手による寡占化を求めた。
 この芝居は{昭和三十年、東京都豊島区椎名町 アパート「トキワ荘」}の物語である。「漫画少年」が最終号を出す寸前だった。トキワ荘の住民は最終号の見本刷りを手にし、歓喜の声をあげるあたりで終わるが、トキワ荘はそれからまだ七年存続し、伝説化する。そして今や「神話」として語りつがれている。アパートはすでに解体されているが、その地きっといまでも磁力を放っているにちがいない。

トキワ荘の夏」(作・演出:竹内一郎


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寺山修司著作集第2巻解説

 第2巻に収められているのはラジオドラマ、長編小説、短編小説、映画のシナリオである。ラジオドラマは聴覚を対象に書かれているにもかかわらず、視覚的であり、映像的である。『中村一郎』の冒頭はフェリーニの映画『81/2』を想起させる。イタリア映画ではいきなりヘリコプターにつるされたキリスト像が大空をまう。カトリック教徒にとっては充分スキャンダラスであり、おおぜいの市民が広場に集まってきて、像を見上げる。やがて市民ばかりか、物売りもやってきて、商売を始める。宣伝カーもやってきて、スピーカーから自社製品の名を連呼し、コマーシャル・ソングまでながす。「門前市をなす」キリスト教版である。そのかみイエスが激怒した場面である。考えてみれば、キリスト教は中世以降なんらかの形で商業主義と結びついていた。いまや多くの国家の財政を支えることに寄与している。ヨーロッパ各地の美術館を飾っている宗教画やキリスト教をテーマにした絵画を見れば納得できよう。
 ここで寺山の書いたラジオドラマを一瞥してみよう。
   S・E−町の現実音。
       広告スピーカーのアナウンス。
       車の警笛
子供 (ふいに大声で)あ、お母ちゃん、空を人が歩いてら。
   音楽―C・I
           タイトル・アナウンス
   音楽―F・O
   S・E−街ノイズ、オフで。
語り手 いやいや、さっきの子の言うことはでたらめなんかじゃないんです。
    私もたった今、見てきたばかりですからね。
    一人のやせた男が、昼さがりの青空をまるで俄か盲目かなんかのようにふらふら
    と歩いていました。
 効果音や音楽がはいるとこの光景はいきいきとし、目の前に浮かんでくるようである。やがて「空を歩く男」中村一郎は全国で、これを東京の事件とすれば、東京中で、すっかり有名になり、満都の話題を独占する。当然メディアは追っかけ、企業は商品宣伝にあやかろうとする。次回空を歩くときは自社のスーツを着、自社の靴を履くよう働きかける。流行は「イチローライン」と命名される。さらには「空を歩く男」といった流行歌まで作られ、街に流される。「イチロー狂想曲」が世を覆う。こうして中村一郎の意思とは無関係に第二次空中歩行の計画が進められてゆく。寺山のペンは「現代社会」の風刺画を描き出す。
 しかしこれは風刺画にはとどまらない。じつは「奇蹟の構造」を物語化しているのである。新興宗教民間信仰でもさまざまな奇蹟が喧伝されているが、キリスト教でも長い間奇蹟の起こった地は聖化されてきている。「聖地」は数多くあるが、あたらしいところではポルトガルのファティマであろう。
 一九一七年五月十三日ポルトガルの寒村ファティマに聖母が出現した。貧しい羊飼いの子ども、三人の少年少女が、稲妻の光とともに後光につつまれた聖母が大空高くあらわれるのを見た。聖母は三人に優しく声をかけ、信仰心をいつまでももちつづけるようさとしたうえ、世界大戦の終結などいくつかの予言をした。子どもたちの言葉は村人にはじまりポルトガルの国民にも信じらるようになった。この神的な現象の噂はローカリティーを脱し、全世界のカトリック信者にひろがってゆく。ついにヴァティカンの教皇庁がのりだし、調査を始めた結果、この現象の正当性を認め、ファティマの地を聖化した。かくて毎年五月十三日は「聖母出現の日」として認定され、大聖堂が建立された。毎年この日には多くの信者がここに集まり、ファティマは賑わうようになった。「...とさ」とつけくわえたい衝動にかられるほど、この物語は奇蹟譚のパラダイムにしたがっている。「マリア伝説」とはだいたいこんなものである。『中村一郎』は奇蹟生成の過程をあきらかにしている。
 そもそもカトリック権力は民間説話や伝承のうちでとりこむべきはとりこみ、公的に認可する。公認されるとカトリック本来の治癒や奇蹟の物語として信者に受容されることになる。いまやファティマの奇蹟もカトリックの暦のなかに組み込まれている。こうした操作は枚挙にいとまがない。残念ながら「中村一郎の空中歩行」は世俗的な国では聖なる物語とはならないが、寺山の語りに特徴的な「さかさまの世界」を現出させている。
 なぜ中村一郎は大空を歩くことになったのだろうか。かれは高層ビルのてっぺんから身を投げた。ところが空中高く舞い上がって、大空を逍遥するはめにおちいった。これはヘリコプターでつるされるキリスト像より神話的で、聖母の御公現に匹敵する。しかし聖母のまします天空は中村にとって地獄だった。こんな奇蹟を起こさなければ、かれの日常は幸福であり、ある意味で天国であった。「空中歩行」はかれに地獄の日々をおくらせることになってしまった。
 そういえば寺山の戯曲「アダムとイヴ」をおもいだす。ドラ息子をかかえる夫婦はあるトルコ風呂の三階に住んでいる。トルコの名は「エデン」。父は無職で、母はりんごで飢えをしのいでいる。まさに一家の住んでいる部屋は「地獄」で、階下で日々展開している快楽の部屋は「天国」であり、「悦楽の園」である。「地獄」が上にあり、「天国」が下にあるという構図は、『中村一郎』にも見出すことができる。中村は最後につぶやく。「幸福は平凡な毎日の中にしかないんだよ」と。大空の奇蹟は「地獄」であり、地上の日常が「天国」なのである。
 寺山はこの「さかさまの世界」をいたく気にいったらしく、翌1960年に書いたラジオドラマ「大人狩り」のコンセプトにしている。ラジオドラマはすぐとテレビドラマのシナリオとなり、さらに映画となっている。『トマトケチャップ皇帝』の原型である。作者がいかに気にいっていたかの証左である。
 1967年に製作されたイギリス映画に『ダウンタウン物語』という作品がある。監督はアラン・パーカー、主演のひとりはは若き日のジョディー・フォスターであるが、登場人物はすべて子どもというギャング映画。三十年代のニューヨークで、ギャング同士の残虐な抗争がくりひろげられるが、映画ではこれが全編子どもたちによって演じられる。ギャング映画はパロディー化されることによって、かえって地下社会のばかばかしさと滑稽さを浮き彫りにする。寺山は『大人狩り』のノートでこんな予見的なことを言っている。「...これが寓意だとはだんだん思えなくなってきた。今や、{子供}は{子供}であるというだけで暴力的表現を内包してしまったからである。」現代の刃傷沙汰報道を読むにつけ、六〇年に二十一世紀社会を透視していたことになる。『ダウンタウン物語』はギャングの世界の話だったが、『大人狩り』は日本の一般社会を舞台にした寓話である。それだけにリアリティーを映し出す鏡の役割をはたしている。鏡像、ひいては虚構が現実の換喩であるという寺山の思想が前面にでている。
 この作品は耳で聞くドラマとして書かれたものであるが、ここに収められているのはテレビドラマである。だから「テレビ指定席中止」という字幕がはいってから始まる。『テレビ指定席』のかわりに放映中の番組名が載せられてもかまわない。かつてオーソン・ウエルズがラジオの聴取者を脅かした手法によく似ている。番組の途中に突然臨時ニュースがはいるという効果を作者はねらっていたのだろう。
「大変なことになったものです。本日午後七時えお期して、東京全部の子供たちが(大人狩り)に立ち上がったのです。」という解説者が画面に登場する。子供たちは東京を占領し、「大人」を収容所に入れる。単なる反抗期の子供の行為かと思われたが、さにあらず、子供たちは「革命」を起こそうとしている。かれらの目的は「子供共和国」の樹立・独立し、国連への加盟もはかっている。コミカルな台詞や場面がいっぱいつまっているが、さしあたり「子供たちの、子供たちによる、子供たちの政治」という子供集会の宣言は卓抜なアイデァの最たるものであろう。やがて子供共和国は日本政府と平和共存するための条約を結ぶところで幕切れになりそうになるが、実はこれが「ごっこ」であるという様相を呈してくる。「ごっこ」という戯れの行為が、日常の演劇性を規定するタームとしてもてはやされ、一時期劇作家がこれを愛用したが、こうした概念を提出したの最初のひとりは寺山修司であった。しかしかれは世界の「ごっこ性」に満足せず、その背後にある原風景を求め、表現をあたえてゆく。
「原風景」が存在の形式を規定するものかどうがさだかではないが、寺山の場合、青森の「原風景」はフィクショナルなトポスの裂け目から姿をのぞかせる。実在の故郷は仮の故郷である新宿と拮抗する。映画『田園に死す』の最終シーンで「私」はいう。「生年月日、昭和四十九年十二月十日。本籍地、東京都新宿区新宿字恐山!!」少年と母はちゃぶ台をはさんで板の間に坐っている。ふたりの背後の押入れが突然向こう側に倒れる。すると都会の風景―車がはしり、人々の行き交う新宿の街がかわって現れる。青森は新宿と通低していたのである。
映画は一九七四年に製作されているが、「恐山」はすでに十数年も前に輪郭をはっきりさせてきていた。おそらく寺山の意識の内部ではものを書くはるか以前から息づいていたにちがいない。「恐山」は少年期から寺山を呪縛していたにちがいない。「恐山」は言語によって浮上するのを待っていた。だから『大人狩り』の翌年にはもう『恐山』というラジオドラマが出現するのである。以後「恐山」は寺山の存在のすべて、「家」、「母」、「女」、「妻」、「友」を含むすべてを象徴するようになる。
「恐山」まず言語化されてのち映像化される。『山姥』に登場する山は「恐山」とは名づけられてはいないが、そう考えてもかまわない。というのは六四年に発表されたこの『ラジオのための叙事詩』の冒頭に掲げられた二首の和歌、「大工町米町寺町仏町老母買う町あらずやつばめよ」と「新しき仏壇買いに行きしままほろほろ鳥と倅帰らず」は、六六年に出版された歌集『田園に死す』の『恐山全景・少年時代』に収められているからである。ただ後者の歌は、「買いし」が「買ひし」と旧カナにされ、「ほろほろ鳥と倅帰らず」が「行方不明のおとうとと鳥」と修正されている。そしてこの二首がそのまま映画『田園に死す』(七四年)のタイトル以前にあらわれ、エピグラフとなる。観客二首の和歌は通低奏音として映像の背後に聞き取らざるをえない。
さらに「恐山」の意味を追いかけてゆくと、ここは、「天国」「地獄」という二項対立的な境界の不分明なトポスの役割をはたしていることを知らされる。二つの対立概念は入れ替え可能でさえある。死は生のなかに、生は死のなかにというインターラクティヴな関係がうまれている。「生が終わって死がはじまるということはない。生が終われば死も終わるのだ。死は、いつでも生につつまれている」と「九州鈴慕」のある登場人物は言う。ここらあたりに寺山の「イマーゴ・ムンディ」に「バロック的なもの」を発見するきっかけがありそうだ。
ここで「バロック的なもの」というとき、西欧の歴史的概念にはかならずしも忠実ではない。それを拡大解釈し、日本の思想ないしは世界像に適用しようという試みをふくんでいる。「バロック」を構成する要素はあまたあると思うが、さしあたり「対立概念の入れ替え可能性」を、主要なものとみなすことができる。寺山にあっては、そのありかを指摘するのは比較的容易である。まず「生」と「死」の関係をおもいつく。かれの作品では「生者」の世界に「死者」が、「死者」の世界に「生者」がしばしば登場する。周知のように、「恐山」には「いたこ」と呼ばれる巫女・霊媒がいる。彼女らには「死者」を呼び出す超能力が備わっている。
『恐山』の良太も「いたこ」と出会って、死んだ姉を呼び出してもらう。この山では死者と対話できる。死者は生きていると同時に生者は死の世界を体験できる。良太が思慕していた和代というすでに冥土に来ている女性とも出会う。和子は「夢ではないのよ。これがほんとなのよ」という。「いたこの口寄せ」にひっかかと思った良太は老女を絞め殺そうとする。しかし「夢だと思っていたことが現実で現実だと思っていたことが夢であったか」と良太は悟り、絞殺をやめる。「恐山」は「生」が「死」であり、「死」が「生」であり、「夢」が「現実」であり、「現実」が「夢」であるようなトポスであるが、寺山はこれを世界全体にあてはめてゆく。ここから「うそ」と「ほんと」、「ごっこ」と「人生」、「幻想」と「現実」、「虚構」と「実在」といった寺山好みの対概念がどんどんと増殖してゆく。
また「恐山」は「死」と「再生」のトポスでもあった。村の老人は良太に言う。「生まれ代わるためには、死なねばならねえんだ!」。「死ぬのはいやだ」と山へ行くのを拒否する良太に「いやでも恐山は呼んでるだど!」と老人は説得する。「恐山」はイニシエーションの場でもあった。良太はここで儀礼を経験してから村をはなれ、都市へと出て行った。
さらに「恐山」にこだわると、寺山は戯曲『十三の砂山』の冒頭に「和讃恐山」をおく。
    十にも足らぬ幼な子が、さいの河原に集まりて、峰の嵐の音すれば、
    父かと思いよじのぼり、谷の流れをきくときは、母かと思いはせ下り
という詞章がある。ここにも「恐山」のバロック的イメージを想像することができる。かれの実人生に則していえば、不在の父は現実化し、実在の母は幻想化している。「現実」と「幻想」とがないまぜになった、境界のさだかならない風景が目のまえに浮かんでくる。結局かれの父と母は「現実」と「幻想」の織りなす想像的存在だった。とくにその生涯にわたって実在した母親は、まさにそうした存在で、かれも極力「幻想化」、ひいては「虚構化」しようと努力したふしが感じらる。
 しかし映画『田園に死す』の最後、「私」のナレーションがオフで聞こえてくる。「たかが映画の中でさえ、たった一人の母も殺せない私自身とは、いったい誰なのだ?」 これは自分のアイデンティティを求める試みというより、寺山の母に対する愛情と憎悪の万力にしめあげられた声と読みたい。対立する概念の止揚への道を探ろうとしたが、はたせなかった、いうなれば絶望の言葉であるが、しかし愛情と憎悪を等号でむすべば、この問題には簡単に決着がつくということもかれは知っていた。したがって、ホモ・セクシュアリティや近親相姦といった禁忌も大半の生のアポリアもこの方法でもって解決できるというオポチュニスムをかれはもっていた。『ああ、荒野』は都会の底辺に住む男たちの、明るい未来の見えない長い物語であるが、全編にこのオポチュニズムが流れていて、開放的なボクシング小説となっている。ボクサー同士の闘いに愛憎の方程式が適用されているところなどやはり「恐山」とどこかでつながっている。
 寺山の世界像を特徴付けているもうひとつの大きなバロック性は「レトリック」であろう。歴史的にはバロック性とは「異なるものの美」を認めるところから出発したのであるが、相反する概念や現象をを同一的な意味の次元に置こうとする「レトリック」をも重視した。
 二十世紀に目覚しい活動をしたイタリアの哲学者にベネデット・クローチェがいるが、かれは定説となっていたバロックポルトガル語々源説に異をとなえ、イタリア語々源説を主張した。十六世紀になってネオロジスムとして流行し始めた「バロック」の語は、「条理にあわない議論」の意味で詩文などに使われたという(「イタリアにおけるバロック時代の歴史」)。「条理にあわない議論」とは、「条理にあう結論」に達する出発点だった。意味不明な前提から出発し、論理的な議論を展開し、真理にいたるという三段論法のパロディーであった。しかしそれは「レトリカ」と呼ばれる修辞学の伝統でもあった。この論法によって詩人はふたつの異質なメタファーを見事にあるひとつのメタファーに仕立て上げる技をもっていた。これは「芸当」であり、「レトリック」でもある。バロックの詩人はこうした言葉の技術を用いて、「生」と「夢」や「生」と「風」などを組み合わせて、新しいメタファーを作ってみせたのである。「みやび」と「野生」、「宮殿」と「廃墟」といった組み合わせをうまくまとめた詩人は声望が高かった。鬼面人を驚かせるようなメタファーを考え付かなければならなかった。文章家には「言語の錬金術」が求められたのである。
 十七世紀ヨーロッパのバロック時代にあって詩人文人たちは宮中で禄をはみ、求めに応じては文章を生産していた。現代日本にあって企業に奉仕し、生活の資をかせぐコピーライターのようなステータスだった。寺山はもちろんそんなステータスは拒否していた。かれは生来すぐれた言語感覚の持ち主であり、成長にしたがってレトリックの技を磨いていった。その才能とレトリックの技から目をみはるようなアイディアが生まれてきた。呻吟はあったかもしれない、もじりはあったかもしれない、反復もあったかもしれない、しかし想像力の泉からはこんこんと新鮮なアイディアの水が湧き出てくるような印象をうけた。
 『山姥』の老婆は山中に捨てられて、死を迎えたあとからすの餌食になるのではなく、人知れず山姥となって楽しく老いの日々を暮らす。暗い「姥捨て伝説」は明るい「山姥伝説」に仕立てられている。この「仕立て」こそ寺山のユニークなコラージュである。説話や伝説、戯曲や小説を解体して、そこから拾い上げた既成の材料を使って、一編の新しい作品を仕立ててしまう。創造をうながすかれ独特の方法論がこれであった。
 『山姥』につづく『九州鈴慕』、『狼少年』は詩的な文章でつづられたラジオドラマであるが、以後の短編・長編の小説と映画をみるかぎり、これが原点であり、原風景であると断じることができる。フォークローアと「現代」が渾然一体となった物語が生み出されている。たとえば『狼少年』の「ばあさん」が、「捨てた子供が三途の川で/親の名前を呼ぶころに/赤いべべきてクシさして/親はゆきます、みやこ路を...」と語るとき、読むものは詩章の流麗さに陶然とする。作者生得の言語感覚の開花を見る思いであり、これが和歌の水流を形成していることを知らされる。和歌はかれの詩魂の心底から沸き上げってきた声であり、これは映画『田園に死す』までとぎれることはない。
 ラジオドラマを過ぎると、『人間実験室』をのぞいて、『花姚記』、『浪曲新宿お七』『さらば黒馬』といった短編小説の世界へと創造の場は移行してゆく。もう「お母さん」という心の奥底からしぼりだされるような呼びかけの声は聞こえてこない。かわって「ウエルメードな結構」の世界がおめみえし、そこここで「レトリカ」が閃光を放つ。
「美にはいつも何かが欠けている」と信じている小説の主人公は不具者を常に装っている、血液とは肉体という配電盤に流れる電流である、などといった表現や、江戸に火を放った八百屋お七の物語を、国会に突入する反体制活動家に恋する風俗嬢の放火に見立てる語りは「レトリック」の発露である。なかでもレトリカルだと思わせるのは、「ああ、荒野」のボクシング・シーンである。リングの上で闘うバリカン無宿と新宿新次の内面描写につよくあらわれる。秀逸なボクシング論を書いたアメリカの女性作家ジョイス・C.オーツは「固定化された概念とは反対に、ボクシングとは、なによりもまず、傷ついている、という状態なのであり、傷つけることではない」というが、寺山もKOされるバリカンに勘定移入している。かれはそもそも傷ついた男に魅せられていたのだ。ボクシングでは「傷」は即物的な現象である。寺山がボクシングすきだったのもそのせである。ボクシング映画『サード』のアイディアもここから生まれたのだろう。
ラジオドラマのデビューとなった、五十年代末の『中村一郎』から多彩な創作活動が展開され、二十数年の時間がすぎた。その間劇作家・演出家としても国際的に「テラヤマ」の名は知れわたり、日本の前衛的、現代劇を語る場合、不可欠の演劇人となった。ただ正直言って映画作家としての知名度はまだ広がりはそれほどなかった。七十年代には映画の領域でヨーロッパに刺激をあたえようと準備をしていた。映画『書を捨てよう、街を捨てよう』をパリに映画配給会社に移してまわっていた。私が寺山に出会ったのもこのころだった。
こうして何本もの長編を撮ったすえ、『さらば箱舟』へと到達した。しかしこれが遺作となってしまった。一般公開の日を待たずに寺山は他界した。この作品以後さまざまなプロジェクトもあり、こと映画に関してはやり残したことが多いという思いを生の終わりまでいだいていたようだ。このシナリオはかれ最後のメッセージだった。
この遺作を作るにあたっては当初ガルシア・マルケスの小説『百年の孤独』のシナリオ化する計画を寺山はたてていたが、版権などの問題からそれがかなわなかった。そこでこの小説に想を得た独自の、まったく新しいシナリオを書くことになった。近代文明から隔絶した村コロンビアのマコンドは、『さらば箱舟』では「百年村」となっている。「百年村」がどこにあるかはシナリオを読む限り明らかではないが、映画を見るとロケ地は沖縄であることがわかる。ここで注目すべきは舞台が青森を離れ、どことは知れない島となっていることである。しかし青森=東京に代わって本土(文明の地)と沖縄(フォークロアの地)という対立が想定されている。時代は限定されていないが、時間が無時間のトポスに侵入してくるところをみると近代の夜明けである明治初期と考えられる。「時間」とともに、ランプ、電話機、写真機が文化果つる島に侵入してくる。近代以前から続いている時任一家の家系は文明の到来とともに、終焉をつげる。村に情報と活力を与えてきた旅芸人たちの訪れ、死者は生者として生きている日常、近親相姦さえ厭わない習俗などすべてのフォークロリークなものは消滅してゆく。
映画の最終シーンでは村人全員、死者も生者も、旅芸人のめんめんも、村の空地に集合して、冒頭「時間」を捨てていた鋳掛屋が銀板写真の被写体となる。しかしもうみな過去の装いしていない。これでは「現代」が記録されたことになるのではないか。をしている。
いやそうではない。「彼ら皆、現代人の服装をして死を生きているのである。」こうして「百年村」最後の記憶が一枚の写真に定着された。

 

 

「モーツアルトの台本作者」の目次

「まえがき」
1.「回想録」
2.「生い立ち−故郷チェネダ」
3.「神学生ダ・ポンテ」
4.「ヴェネツィアの誘惑」
5.「教師ダ・ポンテ−中世都市トレヴィーゾ
6.「爛熟のヴェネツィア
7.「犯罪者ダ・ポンテ」
8.「亡命の地−ゴリツィア」
9・「修行時代−ドレスデン
10.「栄光への階段−ウィーン」
11.「オペラ都市―ウィーン」
12.「栄光からの転落」
13.「失意の時代―トリエステ
14.「閉ざされたウィーンへの道」
15.「新しい人生と遍歴の始まり」
16.「ロンドン到着」
17.「アムステルダムオペラ座計画」
18.「ロンドンのキングズ劇場に台本作家として就職」
19.「蕩児の帰郷−崩壊後のヴェネツィアへ」
20.「借財をかさね、ロンドンより逃走」
21.「新世界アメリカへ渡る」
22.「商人ダ・ポンテ−ペンシルヴェニアの寒村サンベリー」
23.「ニューヨークへの帰還」
24.「ヨーロッパのオペラ一座によるニューヨーク公演」
25.「詩人ダ・ポンテの夢と挫折」
26.「ダ・ポンテの最期」

「存在の交換性」

アントニオーニは観客に理解可能な形で映画のなかでおこったことを説明しない。すでに述べたように、『情事』である女性が突然姿を消す。アンナはブルジョワ家庭に育った女性で、経済的にはなに不自由ない生活を送ってる。自殺する理由は友人にも思いつかない。それなのになぜ失踪するのか。さまざまな仮説をたてるがどれも説得力がない。観客はアンナの内面について自由に想像力をめぐらす。これがアントニオーニの陥穽なのであろう。
 『ある女の存在証明』もまた失踪の物語である。映画監督であるニコロは次回作のヒロインを探す過程でマヴィという女性と知り合い、恋におちいる。二人が相思相愛であることを示す激しいラヴシーンが挿入されるが、このあたりはいかにもアントニオーニらしく、描写に熱がこもっている。ところがある日マヴィは忽然と消え去る。二人が霧の立ち込める森をドライヴするが、ここでもマヴィは姿を消す。ニコロが森の中を探すが見つからず、車に戻ると女性は助手席に坐っている。
これは翌日マヴィが失踪する予兆のようなものだった。二人はニコロの別荘らしき家に泊まるが、翌日彼が目を覚ますと、彼女の姿はない。ニコロはマヴィをそれから探し続ける。この物語にはなぜか二人の男がマヴィをつけねらうという犯罪映画的エピソードがつけくわえられる。これもいかにもアントニオーニらしく、なんの説明もない。ただマヴィの近くに二人の男がいる。ニコロはこの男たちから情報をえて、マヴィの住んでいる家を探り当てる。しかし彼女はニコロとは会わない。彼女の部屋の窓から彼女を認識したらしいニコロの姿が見える。やがて彼はマヴィにかわる舞台女優イーダと知り合い、情を通じる。その結末はどうなるのか、アントニオーニは説明しない。ニコロが次回作にSFものを選んだことが暗示されて、映画は終わる。
 この映画で私の関心を引くのは、一種の「チェンジリング」である。非在となった女性は新しく恋人として出現する女性と交代する。「チェンジリング」とはスカンジナビアからアイルランドスコットランドウエールズ、さらにはイタリア、スペインにかけて古来伝播するフォーク・テールである。「取替えっこ」の民間伝承はおおくの文学に影響を与えている。「ふたご」のテーマにも密接に絡んでおり、これを洗い出すとなると、膨大な資料と、それに基づいた研究が必要となる。
十七世紀のイギリスの劇作家トーマス・ミドルトン(一五八〇−一六二七)に『チェンジリング』(一六二二)という悲劇があるが、ここではピランデッロの戯曲『取替えっ子物語』をとりあげてみたい。。
 シチリアには「Donne」の伝承がある。これは「女性たち」の意味であるが、もちろんただの女性ではなく、趙自然的な能力をもった女性のことである。「ドンナ」と単数では呼ばないらしい。北欧伝説に登場するトロールや英国文化圏のフェアリーにあたる。ケルト文化の「妖精」という訳語をあたえると、理解は容易になる。この「ドンネ」が生まれたばかりの子供を別の子供と交換するといわれている。
 『取替えっ子物語』の冒頭母親は嘆く。「不幸のために、母として私が流す涙を信じてください」。「ドンネ」は夜中煙突の管を伝わって、子供を生んだばかりの母親の部屋に侵入してくる。翌朝母親が目を覚ますと、脇に寝ていたはずの赤ん坊がいない。よく見るとベッドの下にいる。夜中に赤ん坊がベッドから転げ落ちるわけがない。「ドンネ」が新生児をさらって、別の赤ん坊をおいていったのだ。
その赤ん坊はどこの、だれからさらってきたのかは伝承ではあきらかにされない。これはどうも身体障害者知的障害者が生まれてきたときの口実にも使われるらしい。ほんとうは健常者が生まれたのに、「ドンネ」にさらわれてしまったと親類縁者や近隣の村人に信じさせようとした。
こうした伝承は共同体にとって必要な効力をもっていた。障害者問題は宗教は解決できなかった。神は糾弾される可能性があるし、信仰も無意味かされる。だから民間伝承に宗教権力は解決をゆだねたのかもしれない。ピランデッロは「イタリア南部に広く伝播し、ほかの国々でもよく知られている伝説から戯曲の材料をとったといっている。つまり『取替えっ子』伝説をもとに王権のアイデンティティをテーマとする戯曲を書いた。
 その戯曲ではある日北欧のある国から、国王の後継者となる美しい皇太子が太陽を求めてシチリアの村にやってくる。その村とは「取替えっ子」が起こった地である。さらわれた子は北欧の宮廷で育てられ、もうひとりの障害者の子(言葉が正しくしゃべれない)はシチリアの貧しい家庭に育てられる。皇太子はシチリアの保養地で老女に出会う。老女こそ母親である。彼女はその高貴な青年が自分の子であることを直感する。青年は暖かい気候と美しい自然を理由に宮廷に戻ることを拒否する。困り果てたお供の重臣たちはやむを得ず障害者の青年を連れて帰る。その青年こそ実は国王の子だったのである。
この戯曲がマリピエーロによってオペラ化され、ムッソリーニの臨席を得て、上演されたとき、ドゥーチェは激怒し、席を立った。王権の正当性に対する疑念がみずからの権力に対する否定であるとうけとったのだろう。ピランデッロにその意図はなかったが、ムッソリーニは劇作家に反ファシズムの兆候をみてとったようである。「チェンジリング」伝説が政治的なメタファーとしてよみがえってしまった。
 最近とみに声価の高くなってきたクリント・イーストウッドが『チェンジリング』という映画を作った。これは二十世紀にはいって実際にロサンゼルスに起こった物語である。つまり「チェンジリン」が民間伝承とは離れた現実の世界で起こりうることを映画は示している。冒頭「これは実話である」と出るが、「チェンジリング」の事件に限った実話と解釈したい。というのはこの事件からロス市警の腐敗や精神病院の非人道的な実態などが糾弾されてゆくが、これはフィクションと考え、「チェンジリング」に的をしぼることにする。
 一九二八年十月のある日九歳になるひとりの少年が消えた。母親はシングル・マザーで、
電話局で働きながら少年を育てている。学校の送り迎えと出迎えや遊び相手もつとめている。少年の学校のない日、母親が帰宅すると息子がいない。自宅周辺から近辺までさがしまわった末、見つからないので警察に捜索願をだす。数ヶ月後少年が見つかったと母親に警察から連絡があった。親子の対面は感動的なエピソードとしてメディアの紙面を飾る。
 母親の姓名はクリスティン・コリンズ、息子はウオルター。もちろん発見された少年は警察にウオルター・コリンズと姓名をあきらかにする。しかし母親は少年を自分の子とは認めない。まず背丈がややちがう。しかし警察は子供の成長は早いものと主張し、捜査の敏速さと優秀さを誇る。少年のアイデンティティーにいっさいの疑いをはさまない。
しかし母親にとっては自分の息子は他人の子に取り替えられてしまったと確信している。警察は彼女の確信を狂人の妄言と見、彼女を精神病院に収容してしまう。警察はみずからの捜査の無謬性を市民にアッピールし、権威に対する信頼を求める。これに少年誘拐犯罪がからまって物語りは進行するが、ここでは「存在の交換」というテーマを逸脱するので細部にははいらない。結局少年は犯罪者からマーク・コリンズを名乗ることを要求されたと告白し、「チェンジリング」の不成立をあきらかにする。一見近代社会では伝承の世界やヨーロッパの辺境でおこる物語は成立しないように思われるが、アントニオーニの映画では抽象的な「チェンジリング」が起こっている。
ニコロの恋人マーヴィが消えると、新しい恋人イーダが出現する。もちろん二人は別人である。ニコロもマーヴィに対する追憶はイーダによって払拭されない。この存在には交換性が内在している。「チェンジリング」のように表面化はしていないが。では交換の可能性を含んだ存在とはなにか。回答は個の否定へと通じてゆく。アイデンティティとは個を特定化するのではなく、多義性を認めることなのである。
アントニオーニは語る。「霧の中で起こることが決定的なのであって、何がそれを引き起こしたかは重要ではありません。川に落ちた人は誰か?それも何の重要性も持ちません。重要なことは、誰かがそこに落ちたという事実です」。『情事』でいえば、消えていなくなったのは誰かではなく、ある人間が消えていなくなるという事実なのである。こう語るときアントニオーニにとって関心があるのは、個の消失ではなく、世界に存在の消失があるということなのである。この認識はオントロジカルな問題を誘発し、複雑化をまぬがれない。『ある女の存在証明』というタイトルはよく考えると不可解で、むしろ「人間のアイデンティティは特定化できるのか」という永遠のテーマをこのタイトルに見出すほうが理解への道を容易にさぐりあてることができるのではないか。アントニオーニは終生この問題と対峙してきた。
田野倉稔
イタリア語タイトル:"La Scambiabilita‘dell’esistenza“

フェルナンド・ペソアと『海の賛歌(オード)』

もう数十年前になるが、日暮れてスペインとポルトガルの国境を車で越えたことがあった。暗闇をひたすら走ると灯が見えてきた。リスボンだった。マドリッドバルセロナほど巨大な都市ではないが、夜にうかぶ光は旅人に安堵の気持ちをあたえた。ポルトガル人の心をとらえて離さない街であることもわかった。かつて流行歌に歌われた「東京」のように「リスボン」は常にファドゥに歌われる。ファドゥといえば、アマリア・ロドリゲスであるが、しばらくの間日本では現代ポルトガル文化のイメージはこの歌姫にしか代表されていなかった。しかしいまわれわれはペルナンド・ペソアを知っている。東京と荷風プラハカフカ、ダブリンとジョイスのように、リスボンペソアは切っても切り離せない。実際ペソアは生涯この都市を離れなかった。
 クロード・レジの『海の賛歌(オード)』にふれる前に、フェルナンド・ペソアとは誰かを調べてみよう。おそらくほとんどの日本人にとってこのポルトガルの詩人はなじみがないだろうから。『ポルトガルの海』の編訳者池上岑夫氏が巻末につけた解説を参考にしながら(訳詩も引用の文章も同氏による)、生の航跡をたどってみたい。
 ペソアは一八八八年六月リスボンに生まれた。両親が結婚したのは、その前年であったが、彼が五歳のとき父が他界した。二年後母は再婚した。新しい夫は今の南アフリカ共和国の都市ダーバンにあったポルトガル領事館の領事だった。ポルトガルは十五世紀の大航海時代以来アフリカとはつながりが強かったが、十九世紀にはダーバンはイギリスの植民地だった。だから公用語は英語だった。ペソアは母に従い、この地にやってきた。アイルランド人とフランス人修道女の経営するカトリック系の学校で教育をうけた。学校では英語、家庭ではポルトガル語という生活だったが、英語のほうがむしろ母語のようだった。事実二十歳になるまでは英語で詩を書いていた。一九〇五年、十年にわたるダーバンの生活に終止符をうって、ひとりリスボンに帰ってきた。スエズ運河を経由して帰国したのであるが、このときの船旅は『海の賛歌』にも反映しているとみられている。
 ペソアの人生にとってこの「ダーバン経験」は非常に重要な意味を帯びている。しばしば精神分析の対象にもなっている。帰国後はリスボン大学文学部に入学するが、翌年退学している。フランス語にも堪能だったので、リスボンのある貿易会社に席をおき、、英語やフランス語で商業文を作成する仕事をした。一九三五年十一月三十日肝硬変で世を去るまで、この平凡な業務を続けて、糊口を得ていた。生涯独身をつらぬいた。
 比較的自由な時間がとれる勤めだったので、一九一三年ごろから詩や文学的エッセーを書き始めた。当初はポルトガル人の国民性と精神的基盤は「サウダージ」にあるとする文学運動にコミットしていたが、次第にヨーロッパの他の都市で広がるモダニズムポルトガルの文学界に紹介するようになっていった。当然その中にはイタリア未来派の運動も含まれていた。ペソアはその時期マリネッティの影響も受けていた。アルヴァロ・デ・カンポスペソアの「異名」−で書いた詩『勝利のオード』(一九一四に書かれ、翌年「オルフェウ」誌に発表)にはこんな詩句がある。
 {工場の巨(おおールビ)きな電灯の刺すような光を浴び/おれは熱くなり、おれは書く}
 {エンジンは鉄と火と力のつくる熱帯の偉大な住人だー}
 {ああ モーターが自己を表現するごとく、おれのすべてを表現できたなら}
 ここには未来派的概念が歴然と現れている。それもそのはずで、ペソアは詩誌「ポルトガル未来派」にも寄稿していた。『勝利のオード』は当時のポルトガル詩壇ではスキャンダルとさえなった。このような詩的衝撃もしかし限られた世界の事件であったようで、ペソアはあいかわらず貿易会社に勤める、知られざる詩人であった。生前出版された詩集は『歴史に告ぐ』(Mensagem)一編だけだった。ところが死後膨大な量のテクストが発見された。「ペソアのトランク」とはそのテクストの総体を指す言葉として知られている。その後の世界的な再評価の動きについてはあえて言葉を費やす必要もなかろう。一九八五年パリで「ペソア展」があり、これをきっかけに訳書がおおく刊行されるようになった。このころから詩人の名は世界をかけめぐった。それ以前には言語学の泰斗ロマーン・ヤーコブソンストラヴィンスキーピカソジョイスとならんで、ペソアの名をあげているし、詩人に魅せられたイタリアの作家アントニオ・タブッキは「煙草屋」を「世界で最も美しい詩」と呼んでいる。
 ところで『海の賛歌』であるが、これは戯曲ではない。一九一五年アルヴァロ・デ・カンポスの「異名」で書かれた長編詩である。「異名」とはなにか。「変名」「仮名」ではない。一言でいえば「ペンネーム」ではない。ペソアは「異名」を好んで使い、その数は少なくとも十五にはのぼるが、一九一四年以降はデ・カンポス、アルベルト・カイエロ、リカルド・レイスの三人に集約した。タブッキの小説『フェルナンド・ペソア最後の三日間』には詩人の臨終のベッドにこの三人の「異名者」が姿をみせる。
ペソアは「異名」についてこう説明している。「異名による詩は本名の詩人とはちがう詩人の作品なのだ。それは本名の詩人が創りだした一人の完璧な人間による詩である。それはいわばある劇作家の作品に登場するそれぞれの人物の科白のごときものである」。こうして彼は三人の詩人を創造した。あとの二人はアルベルト・カイエロ、リカルド・レイスで、「三人のそれぞれは一種のドラマをなしており、それと同時に三人が全体としてさらにべつなドラマをなしているのである」。またある手紙でこうも書いている。「僕は本質的に劇作家だ。(中略)詩人としての僕のパーソナリティの核は劇作家的詩人であって、詩人として内的昂揚を感じ劇作家として脱個人化を果たす」。要するにペソアの詩的宇宙は、三人の異名作家のテクストが作り上げる劇的交響詩、ひいては「ポリフォニー」なのである。
レジが『海の賛歌』に見た「劇的なるもの」とは、「ポリフォニー」だった。ある人間の内的変貌であり、内的対話であり、まさにそれは複数の人間の織りなすドラマであった。「ペソアが私をひきつけるのは多面性へと向かう存在の大きな広がりである」とこの詩篇を演劇化した理由を説明する。たしかにデ・カンポスは港のあたりを散策する一人の静かな人間であるが、入港し出港する船と広々とした海を眺めているうち体の内部では時化のときの海のように激しい動きが起こってくる。
{夏の今朝、ひと気の無い波止場で,独り/おれは港口へ目をやり、「得体の知れないもの」を見つめる/おれは見つめ、見ていて嬉しくなる/入港してくる貨物船は、小さく、黒く、はっきり見える}(渡辺一史訳)。
そのうちこの静かな男からは想像もできない激しい言葉が飛び出す。それは残虐な、サド・マゾ的な表現である。
{ああ、海賊たちよ!海賊たちよ!/その凶暴さにつながる無法への切望/(中略)おれをおまえたちのまえにひざまずかせよ/おれを侮辱し、おれを打て}
フィナーレに近づくにつれ、逆巻き、膨れ上がった波はおさまり、出港した船の影は水平線の彼方に消えてゆく。船の姿のない波止場には現実の時間が流れる。
{・・・・クレーンがゆっくりと旋回し/おれの魂の呆然とした沈黙のなか/おれにはなにかは分からない満たされぬ情動の円を描く}
かくしてデ・カンポスペソアの長編詩『海の賛歌』は収束するが、これを丹念に読めば、静から動へ、動から静へというドラマティックなイメージのつらなりを思い描くことができる。レジは作者を「複雑で、矛盾を抱えた詩人」とみなすが、こうつけ加えることも忘れない。「彼は矛盾の共存する地を耕し、ついには魂に血と皮膚と神経を与える」。
ポルトガル人の歴史意識、精神構造、生の形態を語るとき、「サウダージ」という言葉がよく使われるが、『海の賛歌』の解釈にこれをあてはめるとなるといささか紋切り型のそしりは免れまい。しかし詩人は内面をつき動かすものを「なにごとかへの郷愁」と呼んでいる。「サウダージ」とはそういうこころの動きであろう。では「なにごとか」とは何だろう。それは「定義できないもの」であり、「黙って受け入れなければならないもの」である。世界とは人間の内面とは無関係に存在する。それがペソアにとっては海のメタファーにほかならなかったのである。自己を語ってやまない『不安の書』は、ペソアを知る最適の書であるが、ここから一行とりだして、とりあえずの終わりとしたい。「理解するのを望まず、分析しない・・・自然を見るように自分を見る。野を眺めるように自分の印象を眺める―知恵とはこういうことだ」(高橋都彦訳)。