雑誌「テアトロ」2009年ベストワン、ワーストワン

●「風水と近代」

下谷万年町物語」劇団唐ゼミ 演出:中野敦之
「風水の思想」は伝統的に中国人のメンタリティーに付着しているものかと思ったら、韓国人もけっこう影響を受けていることを知った。日本人でも「方たがえ」を気にする人はおおいのであるから、韓国でも似たような信仰はあるのかもしれない。。方角の意味論ともいうべき思想は地域をとわずあるようだ。芸能研究に携わっている韓国人の金両基氏はヨーロッパに行ったとき、宗教建築と風水の関係を確認したと語っていた。
 なぜ「風水」のことなどもちだしたかというと、唐ゼミの建てたテントが「風水」と関係があったように思われたからだ。わが記憶は蜷川演出の舞台を記録しているが、こんどの上演とは根本的にちがう。それはかつての舞台がビルの内部にあったのに対し、中野の構築した劇はは大地で演じられたからである。ここに風水、ひいては地霊がからんでくるゆえんがある。
 徳川家康は風水に従い、江戸を構想し、巨大な文化圏を作り上げた。江戸城は支配の拠点であり、多くの重要なトポスは家康の戦略に基づき布置された。増上寺寛永寺も例外ではなかった。では浅草はどうだったかというと、江戸というテクストの外部にあった。多くの研究者が指摘しているように、浅草は「凶」のトポスであった。「汚れた気」を発散している地域なのである。だから遊郭、寺社、見世物小屋が置かれた。「こういった場所は(中略)マイナスのエネルギーを形成してしまう」(御堂龍児「地理風水―聖なる大地の霊力」)。風水師も近づかない地が浅草なのである。ところがここに中野は「下谷万年町物語」の舞台を出現させた。マイナスをプラスのエネルギーに転化してしまった。「下谷」という民衆文化は「上野」というエリート文化を凌駕してしまった。その起爆剤となったのは、いうまでもなく、唐十郎が語って倦まない「下谷万年町」である。
 ここでテントの位置をすこし説明すると、「花やしき」の前を通って、左にゆくと入り口にでる。見世物小屋のメッカであった「奥山」の裏であるが、室井笙によると、「ひょうたん池」の近くだったとのことである。「ひょうたん池」はわが世代には霊力をもっていないが、唐芝居の定番である終幕の「借景」が「万年町」の方角を指しているという設定には霊力があった。この霊力こそまさに「地霊」である。
 「地霊」という概念に基づいてトポスを読解する試みは多くあるが、そのほとんどは戦後を対象とはしていない。ところが中野の試みは「戦後」を「地霊化」した数すくない例というべきではないか。またこの公演はやや制度化しつつあるテントという演劇装置を見直す機会もあたえてくれる。
もはや舞台の成果について語る余裕はなくなってしまったが、芝居見物とは「ラビリントゥス」を体験することでもあると納得させられる。どうやら上演の主体がプロであるとかないとかは二の次のようである。
ワーストワン
「からゆきさん」(宮本研作・中西和久演出)京楽座
これを「シアターグリーン」にあるBox in Box Theaterで見たのであるが、外地シンガポール―当時日本人は「シンカッパ」と呼んでいたらしい(ちなみにこれは中国語の「新加坡」の日本語読み)―には、残念ながら、「明治日本の地霊」は立ち上がってこない。冒頭は美しい場面である。シンガポールから女探しにやってきた娼館のおかみ、お紋が天草の碧い海を眺めていると、ある少女が声をかけてくる。「シンガポールへつれてってください」と。お紋はその言葉をたしなめ、少女の手のひらに指輪を残してさる。
舞台はかわってステレツと呼ばれる娼館街となる。そこで展開するのは、ここに生きる女性たちのさまざまな物語であるが、見るものを引っ張ってゆく牽引力がない。まえだのりおはお紋の亭主、巻多賀次郎をこなすには未熟。「育成対象者」とあるからあえて難役を演じさせたのだろうが、やはり無理だった。見もふたもない話であるが、「からゆきさん」は大曲にすぎた。「育成」を対象とする俳優であれば、それにふさわしい戯曲もあったはず。若い俳優を鍛える「たたき台」として中西氏がこの戯曲を選んだとしたら、勇み足の感あり。「からゆきさん」の多賀次郎の原型はは村岡伊平治であり、ある意味では秋山好古の対極にある人物である。「からゆきさん」は「アンチ『坂の上の雲』」であり、日本の近代化に関する問題群を提起している含みの多い作品である。京楽座の俳優には荷が重過ぎた。演出かきめ細かだっただけに残念。
今後に期待する演劇人:宮城聡:今年SPACがどういうプロを組み、本人がどんな作品を演出するのか楽しみ。