「存在の交換性」

アントニオーニは観客に理解可能な形で映画のなかでおこったことを説明しない。すでに述べたように、『情事』である女性が突然姿を消す。アンナはブルジョワ家庭に育った女性で、経済的にはなに不自由ない生活を送ってる。自殺する理由は友人にも思いつかない。それなのになぜ失踪するのか。さまざまな仮説をたてるがどれも説得力がない。観客はアンナの内面について自由に想像力をめぐらす。これがアントニオーニの陥穽なのであろう。
 『ある女の存在証明』もまた失踪の物語である。映画監督であるニコロは次回作のヒロインを探す過程でマヴィという女性と知り合い、恋におちいる。二人が相思相愛であることを示す激しいラヴシーンが挿入されるが、このあたりはいかにもアントニオーニらしく、描写に熱がこもっている。ところがある日マヴィは忽然と消え去る。二人が霧の立ち込める森をドライヴするが、ここでもマヴィは姿を消す。ニコロが森の中を探すが見つからず、車に戻ると女性は助手席に坐っている。
これは翌日マヴィが失踪する予兆のようなものだった。二人はニコロの別荘らしき家に泊まるが、翌日彼が目を覚ますと、彼女の姿はない。ニコロはマヴィをそれから探し続ける。この物語にはなぜか二人の男がマヴィをつけねらうという犯罪映画的エピソードがつけくわえられる。これもいかにもアントニオーニらしく、なんの説明もない。ただマヴィの近くに二人の男がいる。ニコロはこの男たちから情報をえて、マヴィの住んでいる家を探り当てる。しかし彼女はニコロとは会わない。彼女の部屋の窓から彼女を認識したらしいニコロの姿が見える。やがて彼はマヴィにかわる舞台女優イーダと知り合い、情を通じる。その結末はどうなるのか、アントニオーニは説明しない。ニコロが次回作にSFものを選んだことが暗示されて、映画は終わる。
 この映画で私の関心を引くのは、一種の「チェンジリング」である。非在となった女性は新しく恋人として出現する女性と交代する。「チェンジリング」とはスカンジナビアからアイルランドスコットランドウエールズ、さらにはイタリア、スペインにかけて古来伝播するフォーク・テールである。「取替えっこ」の民間伝承はおおくの文学に影響を与えている。「ふたご」のテーマにも密接に絡んでおり、これを洗い出すとなると、膨大な資料と、それに基づいた研究が必要となる。
十七世紀のイギリスの劇作家トーマス・ミドルトン(一五八〇−一六二七)に『チェンジリング』(一六二二)という悲劇があるが、ここではピランデッロの戯曲『取替えっ子物語』をとりあげてみたい。。
 シチリアには「Donne」の伝承がある。これは「女性たち」の意味であるが、もちろんただの女性ではなく、趙自然的な能力をもった女性のことである。「ドンナ」と単数では呼ばないらしい。北欧伝説に登場するトロールや英国文化圏のフェアリーにあたる。ケルト文化の「妖精」という訳語をあたえると、理解は容易になる。この「ドンネ」が生まれたばかりの子供を別の子供と交換するといわれている。
 『取替えっ子物語』の冒頭母親は嘆く。「不幸のために、母として私が流す涙を信じてください」。「ドンネ」は夜中煙突の管を伝わって、子供を生んだばかりの母親の部屋に侵入してくる。翌朝母親が目を覚ますと、脇に寝ていたはずの赤ん坊がいない。よく見るとベッドの下にいる。夜中に赤ん坊がベッドから転げ落ちるわけがない。「ドンネ」が新生児をさらって、別の赤ん坊をおいていったのだ。
その赤ん坊はどこの、だれからさらってきたのかは伝承ではあきらかにされない。これはどうも身体障害者知的障害者が生まれてきたときの口実にも使われるらしい。ほんとうは健常者が生まれたのに、「ドンネ」にさらわれてしまったと親類縁者や近隣の村人に信じさせようとした。
こうした伝承は共同体にとって必要な効力をもっていた。障害者問題は宗教は解決できなかった。神は糾弾される可能性があるし、信仰も無意味かされる。だから民間伝承に宗教権力は解決をゆだねたのかもしれない。ピランデッロは「イタリア南部に広く伝播し、ほかの国々でもよく知られている伝説から戯曲の材料をとったといっている。つまり『取替えっ子』伝説をもとに王権のアイデンティティをテーマとする戯曲を書いた。
 その戯曲ではある日北欧のある国から、国王の後継者となる美しい皇太子が太陽を求めてシチリアの村にやってくる。その村とは「取替えっ子」が起こった地である。さらわれた子は北欧の宮廷で育てられ、もうひとりの障害者の子(言葉が正しくしゃべれない)はシチリアの貧しい家庭に育てられる。皇太子はシチリアの保養地で老女に出会う。老女こそ母親である。彼女はその高貴な青年が自分の子であることを直感する。青年は暖かい気候と美しい自然を理由に宮廷に戻ることを拒否する。困り果てたお供の重臣たちはやむを得ず障害者の青年を連れて帰る。その青年こそ実は国王の子だったのである。
この戯曲がマリピエーロによってオペラ化され、ムッソリーニの臨席を得て、上演されたとき、ドゥーチェは激怒し、席を立った。王権の正当性に対する疑念がみずからの権力に対する否定であるとうけとったのだろう。ピランデッロにその意図はなかったが、ムッソリーニは劇作家に反ファシズムの兆候をみてとったようである。「チェンジリング」伝説が政治的なメタファーとしてよみがえってしまった。
 最近とみに声価の高くなってきたクリント・イーストウッドが『チェンジリング』という映画を作った。これは二十世紀にはいって実際にロサンゼルスに起こった物語である。つまり「チェンジリン」が民間伝承とは離れた現実の世界で起こりうることを映画は示している。冒頭「これは実話である」と出るが、「チェンジリング」の事件に限った実話と解釈したい。というのはこの事件からロス市警の腐敗や精神病院の非人道的な実態などが糾弾されてゆくが、これはフィクションと考え、「チェンジリング」に的をしぼることにする。
 一九二八年十月のある日九歳になるひとりの少年が消えた。母親はシングル・マザーで、
電話局で働きながら少年を育てている。学校の送り迎えと出迎えや遊び相手もつとめている。少年の学校のない日、母親が帰宅すると息子がいない。自宅周辺から近辺までさがしまわった末、見つからないので警察に捜索願をだす。数ヶ月後少年が見つかったと母親に警察から連絡があった。親子の対面は感動的なエピソードとしてメディアの紙面を飾る。
 母親の姓名はクリスティン・コリンズ、息子はウオルター。もちろん発見された少年は警察にウオルター・コリンズと姓名をあきらかにする。しかし母親は少年を自分の子とは認めない。まず背丈がややちがう。しかし警察は子供の成長は早いものと主張し、捜査の敏速さと優秀さを誇る。少年のアイデンティティーにいっさいの疑いをはさまない。
しかし母親にとっては自分の息子は他人の子に取り替えられてしまったと確信している。警察は彼女の確信を狂人の妄言と見、彼女を精神病院に収容してしまう。警察はみずからの捜査の無謬性を市民にアッピールし、権威に対する信頼を求める。これに少年誘拐犯罪がからまって物語りは進行するが、ここでは「存在の交換」というテーマを逸脱するので細部にははいらない。結局少年は犯罪者からマーク・コリンズを名乗ることを要求されたと告白し、「チェンジリング」の不成立をあきらかにする。一見近代社会では伝承の世界やヨーロッパの辺境でおこる物語は成立しないように思われるが、アントニオーニの映画では抽象的な「チェンジリング」が起こっている。
ニコロの恋人マーヴィが消えると、新しい恋人イーダが出現する。もちろん二人は別人である。ニコロもマーヴィに対する追憶はイーダによって払拭されない。この存在には交換性が内在している。「チェンジリング」のように表面化はしていないが。では交換の可能性を含んだ存在とはなにか。回答は個の否定へと通じてゆく。アイデンティティとは個を特定化するのではなく、多義性を認めることなのである。
アントニオーニは語る。「霧の中で起こることが決定的なのであって、何がそれを引き起こしたかは重要ではありません。川に落ちた人は誰か?それも何の重要性も持ちません。重要なことは、誰かがそこに落ちたという事実です」。『情事』でいえば、消えていなくなったのは誰かではなく、ある人間が消えていなくなるという事実なのである。こう語るときアントニオーニにとって関心があるのは、個の消失ではなく、世界に存在の消失があるということなのである。この認識はオントロジカルな問題を誘発し、複雑化をまぬがれない。『ある女の存在証明』というタイトルはよく考えると不可解で、むしろ「人間のアイデンティティは特定化できるのか」という永遠のテーマをこのタイトルに見出すほうが理解への道を容易にさぐりあてることができるのではないか。アントニオーニは終生この問題と対峙してきた。
田野倉稔
イタリア語タイトル:"La Scambiabilita‘dell’esistenza“