「ある未来派演出家について」(承前)

ファシズムという全体主義体制を忌避して、亡命すべきか、いや体制内で自己を主張して、改革を試みるべきかーこの問題は第二次大戦後さまざまな角度から論じられた。とくにドイツの作家や音楽家にこの問題は突きつけられた。幸か不幸かイタリアはレジスタンス勢力は自力でファシズム体制を打倒したことになっているので、「ニュールンベルク裁判」や「東京裁判」のような連合軍による裁判はなかった。「人民裁判」や「国内裁判」による、処刑をふくむ厳しい判決もあったが、不問の形で戦後の民主主義体制に組み込まれた文化人もけっこういた。
 ピランデッロファシスト党を離党もしなかったし、イデオロギーも放棄しなかったが、あきらかにムッソリーニ体制を嫌い、外国に滞在する時間を長引かせた。これは一種の「亡命」であるという見方がいまでは強まってきている。遺族が党葬を拒否し、「アンチファシスト」として死んだと世界に思わせたことは、ピランデッロの名誉に花をそえている。彼がファシズムとの距離をおきはじめているという報告が、ジュネーヴから内務省によせられていた。時の公安警察が記録として残していた(一九三五年二月二十一日)。
 「亡命しているグリエルム・フェッレーロ教授が何人かの友人に語ったところでは、ノーベル賞を受賞したルイジ・ピランデッロは、最近党幹部やムッソリーニの不評をかっており、真剣に亡命を考えている。亡命先はスエーデンの模様。同国では著書がかなり売れているので」。ファシスト政府の監視網は外国にまでおよんでいたことがわかる。ついでにいえば、ピランデッロはブラジルの発言でも政府の不興をかっている。
 ではアントン・ジュリア・ブラガッリアはどうであったか。彼も反ファシズム的な言辞や活動をとらえられてはいないが、ファシズム体制に従順でない性向を内務官僚に指摘されていた。「アンチコンフォルミスト」というレッテルを貼られていた。演劇改革を志していれば、「コンフォルミスト」であるはずもないのだが。彼の演出になる舞台は当然原作とはちがい、「パッツォイド」(気がふれている)と検閲担当官は見ていたものもある。
 しかしブラガッリアには戦略があったのだろう。劇作家ではなく、演出家であったので、イタリアに残って、演劇の改革を実行しなくてはならなかった。革新的な絵画を発表する場として、コンドッティ街に「芸術の家」という活動の拠点を作った。ここで演劇をふくめた同時代文化に全否定をつきつけつけた。この拠点には、「アングリー・ジェネレーション」が集ってきては、外部から見れば「騒動」のような行動をとっていたので、もともと公安には目をつけられていたが、「騒動」は「革命」へと進まないと見られていた。「革命」はファシスト勢力が推し進め、権力奪取に成功した。「未来派」は「革命」の主体にはならないが、「シンパ」になるとファシスト側はみていた。事実後年マリネッティたちはファシスト党員になり、体制を支える勢力を構成した。ブラガッリアは政治的には自らをファシストと規定しながらも、政治的活動には手をださなかった。もっぱら演劇活動にのめりこんでいた。一九二三年からやはりの市の中心にあったアヴィニョネージ街に作った新しいスタジオで演劇的実験を重ねるつもりであったが、一方で小さな劇場を飛び出し、広い空間を劇場化するという構想ももっていた。これを実践するには公的な認可が必要だった。それには絶大な権力を手にし始めたムッソリーニ政権が協力してくれるとの予感があった。「実験劇場」のオープニングにムッソリーニを招待したが、出席しなかったので、書面で要望することにした。
 「1:ダンスや音楽などを入れて演劇を野外で公演したり、あるいは夜サーチ・ライトで照らし、花火を華やかに打ち上げ、ボルゲーゼ公園のギリシャ式の劇場で芝居を見せる(中略)ことは近代的な目論見です。そこでお願いしたいのは、騎馬隊、戦車隊などの協力です。入場券は学校関係に半額で発売することにします。群衆には学生を参加させます。この三つの要素を投入することで経済的な問題は解決できると同時に、制作費を回収するに必要な収入はあげることもできるとおもいます。
 2:近代的な劇団が出演する芸術劇場―近代的な設備の整った劇場であることーを創立するためには全国に宝くじを発売するという提案もあります。このことについてもお話もうしあげたいとおもっております」。
 この「お願い」と「提案」に対してはムッソリーニから「ノー」という返事がきた。一九二三年五月に交わされた書簡だった。「提案」については詳細をしりたいとはいったが 軍隊に関してはそのようなイヴェントには関与させないというにべもない回答だった。ムッソリーニは勅命を受けて組閣をおわったところだった。やがて絶対の権力者になるが、首相の座について半年ほどである。軍隊を演劇に導入したら世論の反発をかうことは必然だった。ムッソリーニを支持した国民は演劇の改革ではなく、政治の改革を求めていた。ファシスト政府はまだ文化の問題には手をだしていなかった。なによりもまず政治ありきだった。文化統制がはじまってくるのは二十年代の後半であった。
 ブラガッリアといえば、「全体演劇」を志向していた。トラック、戦車、大砲などの武器、兵士、群集を投入した「マス・シアター」はファシズム期に実現はしなかったが、これは中世の祝祭劇あるいは共同体の主催する野外劇に起源がり、近代になって多くの演出家が夢想した上演である。数十年前ルカ・ロンコーニがフィアットの工場内部にある広い空間を活用して、カール・クラウスの『人類最後の日』を上演したことがある。新聞・雑誌にのった記事から推測すると、広い空間に線路が敷かれ、列車が走ったり、乗用車やトラックが行き来するといったスペクタクルだったらしい。日本でもいくつかの試みを見た記憶がある。
 そうした軍隊の協力をえた大規模なスペクタクルをブラガッリアはファシスト政権下で実現しようと策略をねったが、うまくゆかなかった。一九二三年ムッソリーニ政権もまだ基盤が堅固にはなっていなかったが、ブラガッリアのはじめた「実験劇場」もまだ方向性を確立してはいなかった。しかしこの情熱的な演出家はファシスト政権に希望を託していた。だからある意味では「すりより」とも見られる手紙を出し続けた。おそらくその数は百通はくだらないだろう。ピランデッロのように亡命は考えてもいなかった。ムッソリーニファシズムイデオロギーによる政治改革を「革命」と位置づけていたことは前回に記したが、一九一七年の「ロシア革命」にも匹敵するとおもいこんだ。ゆえに「ファシズム革命」と呼んだわけである。
ムッソリーニが大きく右旋回していったのは一九一七年ごろだった。第一次世界大戦終結ぢたあとイタリアには参戦の代価として約束されていたものがあたえられなかった。国民の不満が噴出しそれが政府にむけられた。一九一九年国民的な詩人ダヌンツィオが義勇兵を募り、イタリアに返還されなかった領土(フューメ)を占拠したのもそうした土壌からうまれた。ダヌンツィオがファシストであったかどうかはここで問わないが、熱烈なナショナリストであったことはまちがいない。ファシズムを助長させた背景には強烈なナショナリズムがあった。
左翼側はこのナショナリズムのうねりを理解しながらも、自分たちの陣営にひきよせることができなかった。イタリア共産党の生みの親のひとりアントニオ・グラムシは新聞で劇評を担当していたが、国民がなぜイプセン劇の上演にはせ参じないで、キャバレーやヴァライエtィー・ショー、あるいはサーカスなどのくだらないエンターテインメントに夢中になるのか理解できないと書いていた。国民に魅力ある文化的なプログラムを提示できなかったグラムシ側にもファシズムの生成を阻止できなかった一端の責任はあるのかもしれない。われわれの場合でいえば、日常テレビにあふれているタレントたちの愚にもつかない遊びをみていると、グラムシの気持ちもわからないではない。政治のなかで決定力をもつマジョリティーとはどのような思想をもち、どのように行動するのか、つねに不可知なものである。
グラムシは少数者でもってフューメを一年以上にわたって占領し、コムーネのような共同体を作ろうとしたダヌンツィオに興味を示し、戦略の詳細を聞き出そうとしたといわれている。一時的にせよ国家権力を奪取し、自分たちの理念にふさわしい共和国を樹立しようとしたのが、左翼勢力ではなく、ファシスト勢力だったことについてはさまざまな考察が可能であるが、グラムシダヌンツイオに出し抜かれたことは事実である。ファシストロシア革命を詳細に分析したという話はきいたことがないが、映画の分野では「ソヴィエト・モデル」があったことは確認されている。チネチッタの映画研究所ではエイゼンシテインやプドフキンが研究されていた。戦後クローズアップされたネオレアリズモも実はファシスト政権の運営していたチネチッタの映画研究からうまれてきたのである。
「実験演劇」は十年代から二十年代にかけてのロシアのさまざまな演劇的試みの影響はなかったが、ブラガッリアは強引にイタリアのほうが先取りしていたと主張する。「『幾何学的スタイルはソヴィエトによってすでに確立されていたから、ファシズムコミュニストと同じスタイルをもとめた』といわれているが、ちょっとまってほしい。幾何学的スタイルをU.R.S.S.が確立したのは、ムッソリーニと「イタリアの人民」誌がファシズムを誕生させ、いま世界中に影響を与えているイタリアン・スタイルの創造者たちを支援した後のことである。(中略)ルナチャルスキー自身いうようにロシア人は自分たちの芸術はイタリアの未来主義からの影響であると認めている」とその著「革命の演劇」((一九二九)に書いている。「幾何学的スタイル」とはなにか判然としないが、舞台美術やロボット的人形の導入だったら多少事実と一致する。世紀末から二十世紀はじめにかけてはさまざまな革新的な演劇論や舞台芸術論が現れてきている。同時多発的でもあった。どこの国の誰が最初かとなると、議論は錯綜する。ただブラガッリアもそういった革新の波の飛沫はあびていたことはまちがいない。
エヴレイノフとブラガッリアとの関係は特定できないが、接近したことは確かであろう。英語の演劇百科事典には、エヴレイノフは一九二五年パリに“emigrate”と記されている。
フランス語でもイタリア語でも“emigre”,”emigrato”(やはり「一九二五年」となっている)がつかわれている(「移民としてやって来た」と解釈できるが、「移民」には「亡命」の意も含まれる)。ところが『ロシア・アヴァンギャルド小百科』(タチヤナ・ヴィクトロヴナ・コトヴィチ著・桑野隆監訳)では「二五年一月、ワルシャワプラハ、パリを訪れる。二六年にはニューヨークのギルド劇場で活動し、『生活における演劇』の出版を準備し、講義を行う。二七年、パリに定住」とある。「小百科」の記述を額面通りうけとれば、「亡命」ではなかった。こうしてパリに居を定めたエヴレイノフにブラガッリアは会った可能性はある。というのは「実験劇場」の創立七周年の際このローマ人にお祝いの言葉を送っているからである。
エヴレイノフは、アンネンコフたちの協力を得て、ペトログラード(現在のサンクト・ペテルブルグ)の冬宮の前の広場で大野外劇を制作している。広場の両端に二つのプラットフォーム(足場のようなものか)を組み、白軍と赤軍の兵士を配置した。その二つのプラットフォームをつなぐ橋の下に五百人からなるオーケストラを置いた。ここで革命劇を兵士たちに演じさせた。宮殿のいくつもの窓には闘う兵士の影が写しだされた。花火が打ち上げられ、旗がふられ、革命の勝利が謳いあげられた。この「大スペクタクル」が実際の革命指導者たちから批判されたとはどこにも書かれてはいない。とすれば亡命する理由はないわけである。母親がフランス人だったので、定住の地としてパリを選んだという単純な見方でかまわないのだろうか。。ソヴィエト連邦を離れる理由がどこかにあったのか、研究者に聞いてみたいところである。
この野外劇のことを『小百科』で確認してみると「(エヴレイノフは)二十年にはペトログラードで、扇動的な大規模の芸術を組織する試みとしてだけでなく、その三年前に体験された出来事そのものの昇華の契機を強調する試みとしても、群集劇『冬宮奪取』(一万人の参加者)をつくり上げた。それは独特な心理劇であった」となっている。「心理劇」というのはちょっと腑に落ちないが、想像するに、音楽や歌舞のある「ロシア革命再現劇」ではなかったのだろうか。ブラガッリアはこれを知っていたのか、いなかったか、じつに興味がある。
七十年代にパリでも大きなスポーツ・パレスで『フランス革命』が上演されたことがあるが、『冬宮奪取』の遠い記憶がよみがえったのかもしれない。直接的には「五月革命」の影響とおもわれるが。
エヴレイノフを語るときに必ず持ち出されるキーワードは「演劇性」(英語では「シアトリカリティー」であるが、たしか高山宏が「芝居がかり」という訳語を与えていた)。人間の生活のなかにある「演劇性」を指摘したものであるが、これは演劇理論や演劇史に関する概念のなかで大きくクローズアップされる。ピランデッロの演劇概念とも通底しているし、リペッリーノのディスクールを刺激した理論でもある。新しいところでは、アメリカの社会学者アーウイン・ゴフマンの「行為と演技」に関する理論が想起される。
さらにエヴレイノフの行った演劇のなかで注目をひくのは、フランス中世演劇とスペインの「黄金時代」の演劇である。一九〇七年に立ち上げた劇団「古代劇場」(スタンリヌイ・チアトル)は、「最初のシーズン、中世奇蹟劇や教訓劇、笑劇、十三世紀のアダム・ド・ハーレ作の牧歌劇『ロバンとマリオンの劇』から成る二つのプログラムを上演した」(エドワード・ブローン『メイエルホリド 演劇の革命』浦雅春他訳)。エヴレイノフは古代劇からはじめて中世劇・ルネサンス劇へといたるヨーロッパの演劇史をカバーするつもりだったようであるが、現実には中世演劇の上演にも時間がかかった。次の公演にはコンメディア・デッラルテ(CDAと略記)ものということで、周到な準備をしていたが、一九一四年第一次世界大戦が勃発し、計画は頓挫した。このCDAのほうは一九一〇年に開場した小劇場「幕間劇の館」(ドーム・インテルメージー)で、シュニッツラーの作品「ピエレットの肩掛け」をメイエルホリドが自由に翻案し、「コロンビーナの肩掛け」というタイトルで上演した(ブローン前掲書参照)。「古代劇場」でエヴレイノフが活動したあたりから、やがてヨーロッパの演劇界に波及してゆく「CDAルネサンス」の兆しがみえてくる。
一方中世劇のほうというと、すでに世紀末から再評価が始まっていた。聖史劇、ミラクル・プレイ、モラリティー・プレイ、受難劇などとよばれる宗教的な中世劇が反自然主義的可能性をもった演劇として浮上してきた。理由はいろいろあろうが、まず第一に上演の場がおおくは野外だったこと、次に俳優と観客の境界がなかったり、希薄だったことがあったからであろう。当然仕切りとしてしての幕のない近・現代の劇場概念とも隣接していた。さらに共同体が主催する、共同体自身の演劇だったことが、閉鎖的な常設の劇場は演劇上演のすべてではないと考える機会をあたえた。これは古代ギリシャ劇やローマ劇についてもいえることだった。演劇を本来の形態に戻そうという動きがヨーロッパの演劇人から生まれてきた。エヴレイノフの「古代劇場」などもそうした動きのひとつだった。中世劇復活の動きからは、演劇と祝祭、演劇と民衆、自然主義的要素の排除などさまざまな演劇の桎梏をとりはずそうという試みが行われてきた。ワグナーの楽劇、アッピアの舞台装置の出現はこういう演劇史の流れでとらえることができる。ラインハルトとホフマンスタールの中世劇再評価の試みもその流れから除外できないだろう。
ここでブラガッリアにもどると、ファシズム体制化ならかつて中世劇が占めていた役割をはたせるとおもった。具体的にはファシズムイデオロギーを盛り込んだ共同体演劇を制作しようとはかったのである。しかしムッソリーニはワグナーの庇護者ルートヴィッヒ二世ではなかった。ブラガッリアの提案を一蹴し、「既成の劇場を整備して、使用するように」と答えた。かくして中世劇、宗教劇、そして共同体劇としてのファシスト・スペクタクルはブラガッリアの手では実現しなかったが、慧眼なるムッソリーニには、巨大なファシスト・スペクタクルを制作をひそかにもくろんでいたふしがある。ローマ市は一九四〇年に行われる予定だった第十二回大会オリンピックの開催地として立候補しているからである。そのときに建設されたオリンピック・スタジアムは未完のまま残されている。現在は観光スポットになっている。
ヒットラーナチスのオリンピックのようにムッソリーニファシストのオリンピックが実現した暁には、ファシズムを世界に宣伝する大規模なオープニング・セレモニーを披露する恰好の機会が到来するとイタリア政府は計算していた。しかしオリンピックも万博も国際組織委員会からは招致を拒否されたので、北京オリンピックの総指揮をとったチャンイーモーのようなスターは生まれなかった。
ブラガッリアは前稿で述べたようにフックスの影響をうけていた。、『演劇の革命』をひっくり返して『革命の演劇』を一九二九年に上梓した。著者はかなり長い序文をムッソリーニに献じた。それはオマージュという形をとった「へつらい」でもあった。「実験劇場」発足以来なんどとなくこの独裁的な首相に謁見を求めてきたが、かなわなかった。その代償としていささかオーヴァーなオマージュをささげたのだろう。
「運命に導かれながら、八年間にわたって革命より生まれた実験劇場は閣下の下にあった。これからは閣下の意思に従い、劇場は自らを防御し、生きてゆきます。どうか、閣下、われわれをカタコンベキリスト教信者の隠れていた地下の洞窟)から連れ出し、従順なる精神に勝利をあたえてください」と序文をむすんでいる。
この過剰なオマージュから見えてくるものは、ブラガッリアが演劇活動で追い込まれているこtである。アヴィニョネージ街の地下にある実験劇場から外へでてファシスト・スペクタクルの制作をさせてくれとたのんでいるようである。また彼は国立劇場の建設も請願していた。「演劇の改革は舞台の改革から」と信じており、廻り舞台、可変式の舞台、精密な照明装置などを備えた近代的な劇場の建設も要求していた。しかし演劇改革には政府は動かなかった。ムッソリーニは「新しい劇場などとんでもない。既成の立派な劇場があるではないか」とねべもなく拒否していた。
また実験劇場の運営も財政的に困難になってきた。ブラガッリアは政府に援助を申しいれていたが、やはり聞き入れられなかった。彼は劇団を組んで巡業にでなくてならなくなった。ムッソリーニは「実験劇場」が困窮しているのを知って、閉鎖を命じた。こうして「実験劇場」一九二九年最後のシーズンを迎え、翌三十年幕を下ろした。「実験劇場」のオープニングのときにくらべ、ブラガッリアに関する新聞・雑誌の記事が少なくなり、閉鎖のことも話題にならなかった。一九三〇年アルゼンティンの演劇関係の団体から招待をうけ、ブラガッリア五月に出発した。旅費は自己負担であったので、政府に負担を求めている。彼としてはアルゼンチンで公式行事にも出席したり、イタリアの演劇状況に関する講演を行うので、政府が協力するのは当然と考えた。
一方「実験劇場」の閉鎖という事態は避けられず、アルゼンチン出発前に拠点となっていた地下の劇場で最後の公演をおこなった。公演といってもエミーリア・ヴィダーリという有名な歌手のコンサートだった。ファリャ、グラナドスなどのスペイン歌曲にくわえて、ペルー、アルゼンチンなどの歌を歌った。このコンサートは好評をむかえられたが、財政的な窮状には変化はなかった。ブラガッリアは「実験劇場」が閉鎖となると、国際的な反響が大きいと政府におどしをかけたが、ムッソリーニの決定は覆らなかった。
ブラガッリアとしては、「閉鎖」が「破産」と受け取られると、不名誉なので、「実験劇場」の名称は存続させることにした。しかし実態は数々の実験的演劇を試みてきた小さな地下空間での活動には終止符がうたれた。以後彼は「実験劇場」の番外活動としてイタリア国内の巡業を始めることにした。この巡業にたいしても交通費(主として劇団員の移動にともなう鉄道運賃)無料化や機材運搬経費の大幅な負担などさまざまな財政援助を求めた。体制側は巡業はファシズム芸術の広報宣伝になると考え、ある程度ブラガッリアの要求にこたえた。ちなみに「三文オペラ」は巡業最初の演目で、ミラノの劇場(フィロドランマチ座)で公演した。「三文オペラ」の選択には体制側から異論がだされたが、ミラノ公演は実現した。大成功とはいわないまでも、不評ではなかった。演劇批評家たちもブレヒトのことを理解していなかったのか、理解していないフリをしていたのか知らないが、エンターテインメントの戯曲として快く受け入れた。もっともブラガッリアも「ジャズ・コメディー」と副題をつけていた。ブラガッリア自身も新聞記者とのインタヴューで「この作品ではおおくの有益な機会、つまり音楽、演技、衣装、特に演出について考える機会をあたえられた」と答えている。これはいままでなかったことだが、カーテン・コールで舞台に現れ、観客の拍手に答えた。
アルゼンチンから帰国したときにはもはや「実験劇場」の主催者ではなかったが、それから数年、一九三六年まで九本の作品を演出している。もちろん拠点のアンダーグラウンド・シアターではなく、ヴァッレとアルジェンティーナという、プロセニアム・アーチの劇場でだった。「実験劇場」のタイトルで演出した最後の作品は『ジェズアルド親方』というジョヴァンニ・ヴェルガの小説をブラガッリア自身が戯曲化したものだった。ヴェルガといえば、オペラにもなった『カヴァレリア・ルスティカーナ』の作者であるが、自然主義的色彩の強い作品を書いた作家である。体制の検閲も考えてヴェルガを選んだのであろうが、実験的演出を続けてきた演出家のレパートリーとしては不似合いの感がある。それでもかねての心情である「反自然主義」の手法をつらぬいたのかどうか、残念ながら判断する資料には欠けている。
当然ブラガッリアは政治状況と闘いながら演劇活動を続けてきたのだが、やはりファシズムの壁は乗り越えられなかった。私的であろうと、公的であろうと、上演は体制の目にふれる。視線を拒否する上演はありえない。戯曲は秘匿できる。しかし上演はできない。
ブラガッリアがアルゼンチンから帰国したころからムッソリーニはたがを締めはじめた。ドゥーチェの内部で自信が強化されてきたのか、危機が胚胎してきたのか。おそらくその両方だったろう。しかし外面的にはファシズム体制は一枚岩的になっていった。芸術家や表現者の擬態や撹乱に容易にごまかされなくなってきた。ボッタイという寛容で、文化に理解のあった閣僚が解任された。「コルポラツィオーネ」(労使協調つまり使うものと使われるものが協調する制度)からボッタイが離れたことは、ブラガッリアにとっても痛手であった。ブラガッリアは「コルポラツィオーネ」の映画演劇部門のアドヴァイザーと舞台芸術全国連合会の事務局長とをつとめていた。
「すべては国家の内にある。国家の外にあるものはないもない」と豪語するムッソリーニにとって演劇的実験など益するところはなにもなかった。芸術の自由もまたどうようだった。ブラガッリアが「実験劇場」の看板をおろした翌年にはイタリアはエチオピアを併合し、ファシズム国家の意気盛んなところを示した。
ブラガッリアは体制内では演劇関係の役職についていたので、協力的とみなされていた。ムッソリーニもその点を評価していたようだ。国立劇場を建設するというブラガッリアの提案は受け入れることはできなかったが、「芸術座」の主宰者というタイトルを認めた。以後彼はファシスト演劇人として演劇活動を続けたが、実験性とはすっかり離れてしまった。三十年代後半から彼は仮面や道化の研究に専念していった。しかし実験的・先鋭的演劇活動を続けてきたメイエルホリドを襲った悲運にくらべれば、幸福な生涯を送ったといわざるをえない。