「ある未来派演出家について」こんなことを書いてみた。

「ある未来派演出家について」(1)
 F.T.マリネッティが二十世紀のはじめ未来主義という名の前衛的な芸術運動を展開しようと計画を練り、同志を募った。賛同して集った同志を「未来派」と呼び、創立宣言を発表することになった。マリネッティはフランスの日刊紙「フィガロ」を選んだ。一九〇九年二月二〇日創立宣言は掲載された。その年から今年でちょうど百年経過した。芸術運動にとって「百年記念」はさして意味がないが、回顧するにあたっては恰好の機会であろう。イタリアでもいくつかの都市で未来派関連の展覧会が催された。
 もっとも大規模だったのは二月六日から六月七日までミラノのパラッツォ・レアーレで開催された「未来主義909−2009」であった。サブタイトルには「速度・芸術・行動」とあった。この展覧会はイタリア共和国大統領ジョルジョ・ナポリターノ、さらにはミラノ市長後援となっている。思えば一九八六年ヴェネツィアのパラッツォ・グラッシで開催された「未来主義(単数)と未来主義(複数)」では、総監督はポントゥス・フルテンだった。聞けば北欧の人だったようだが、未来主義研究者にはなじみのない名であった。
展覧会会場ももとはおおきな倉庫で、それを改装した空間だった。つまり未来主義展が最初の催し物だった。ある雑誌には「ムッソリーニが革命家だって?」とこの展覧会を揶揄する記事も載っていた。まだ未来主義はイタリアではタブー視されていたわけである。研究も本国より外国のほうが多かった。周知のように未来派の多くはファシズトになったり、ファシズムにシンパシーを抱いたりした。かつて私が『ファシストを演じた人々』(青土社)を書いたとき、初版を売り切ったにもかかわらず再販は出なかったし、同社の出版広告からもはずされていた。だから『ファシズムと文化』を上梓したときには、序文に「本書はあくまでもムッソリーニの政治体制やファシズムというイデオロギーの批判を前提としている」と研究者の立場の旗幟を鮮明にしたものである。最近ある若い研究者(大内紀彦)の「下位春吉論」を読む機会があったが、その中で彼は「ファシズムにかかわった思想や人物は(中略)歴史の中で黙殺されてきた」と臆せず語っている。下位春吉というのは第二次大戦中ムッソリーニダヌンツィオと交友関係にあったせいか、帰国後は日本でイタリアン・ファシズムを喧伝したダンテの研究者だったが、戦後は戦争協力者としてブラック・パージを受けた。大内氏はいま下位の再評価をめざしているが、氏の文章を読むと、時代はファシズムのしばりから解放されるつつあるという感じがする。 
私が未来主義研究を始めた六十年代は文献も少なかったが、書物の定価も安かった。「マリネッティ戯曲集」などは数千円で手に入った。そのかわりマリネッティの伝記さえ正確なものは書かれていなかった。そんな文献のとぼしいころに始めたわが調査は拙著『イタリアのアヴァンギャルド』(一九八一年刊)となって結実した。おそらくこれが日本で最初の本格的な「未来主義」の紹介書ではないかとおもっている。した。以後さまざま人が「未来派」についてエッセーを書き、セゾン美術館で展覧会まで開催されるにいたった。ヨーロッパにおける初発のこの芸術運動に対する関心が芽をふきかけた。しかし現在の日本ではどうだろうか。シュールレアリスムダダイスム表現主義などにはときどき新しいアプローチが生まれてきているのに、未来主義は御用済みとばかりに脇へ片付けられてしまっている。
 二〇〇九年は未来主義創立百年にあたるのに日本のジャーナリズムは一顧だにしない。ただ日本経済新聞がミラノの展覧会に関する和田忠彦の小文を載せているので、厳密に「一顧だにしない」というのは正確ではないかもしれない。そもそも日本の新聞はジョルジョ・ストレーレルが他界したときも無関心だった。外国の演出家にページをさく余裕はないというかもしれないが、それではローマン・ヤコブソンはどうか。言語学の巨人の死を報道さえしない。未来主義運動の生成に一言もふれないのはけだし当然かもしれない。これを日本のジャーナリズムの怠惰というべきか、無知というべきか知らないが、知的退廃に冒されているにはたしかだ。「現象」を追いかけることに汲々として、「歴史」には無関心というのが日本のジャーナリズムであろう。
 それでもこんなことがあった。十月の半ば南青山の画廊で「未来派最後の画家」ドメニコ・ベッリの個展があるという情報を手にしたので出かけてみた。もちろん新聞で知ったのではない。個人情報で知ったのである。「時の忘れもの」という変わった名の小さな画廊だった。ベッリの作品が八点ほど展示されていた。「百年」というメルクマールを知った上での企画であることはいうまでもない。
 ベッリについては知る人もまずいないと思うので、個展のときもらった資料によって経歴を紹介しておこう。
 「一九〇九年ローマ生まれ。一九二九年ジャコモ・バッラのアトリエに入り、未来派の活動に参加。ローマの『ブロッコ・ディ・フトゥルシムルタニヌティ(未来同時主義者集団)』でアスグスト・ファヴァッリ、ブルーノ・タートと活動する。(中略)。一九三四年―四二年A.G.ブラガリアがディレクターを務めたテアトロ・デッレ・アルティ(芸術座)において広報・舞台美術を担当した。(中略)一九八三年ローマ近郊のラヴィーノで没」。
 以上がベッリの略歴であるが、遅れてきた未来派として戦後まで活動した。「宇宙と海の視覚化」を試みた画家として評価されてはいるが、未来主義運動のなかでそれほど重要な活動家ではなかった。しかし未来派の演劇運動に関心のあるものにはちょっと気になる事実がある。一九三四年ベッリがブラガッリア(「ブラガリア」あるいは「ブラガーリア」より原音に忠実と思われるのでこう表記する)の「テアトロ・デッリ・インディペンデンティ(独立者たちの演劇)」に参加していることである。
 アントン・ジュリオ・ブラガッリアは一八九〇年ラツィオ州のフロンシノーネという町で生まれている。母が貴族の血をひいているというから家柄は比較的よかった。未来派に加わったのは十九歳のときだった。未来主義の創立宣言が発表されてすぐのことだった。早熟だったといわれている。十台のころすでに考古学に興味をもち、実際にローマの古代遺跡の発掘にかかわったりしている。未来派の同志になったとき、「未来派の考古学者」といわれた。その後考古学者の道は歩まなかったが、文化の領域で考古学的方法をめざした。ミッシェル・フーコーが「知の考古学」を唱えて以来、「考古学」が単なる発掘という自然科学の方法以上の意味があたえられてきているが、ある意味ではブラガッリアは「知の考古学」の先駆者であったというべきかもしれない。
 そのころの家庭としては豊かな環境にあったのだろう、写真を趣味にしていた。十代で未来派の思想に共感するくらいであるから、「芸術の革新」を実践することに意欲をもやしていた。それには写真の革新がもっとも身近な手段だった。草創期にあった写真の技術はもっぱら現実の断片を自然主義的に、それもたくみに切り取ることに重点がおかれていた。「瞬間性」も重要な要素だった。現実のある瞬間を印画紙に写しとることも、絵画には不可能な技術だった。肖像写真もまた瞬間性を利用した絵画に不可能な技術だった。写真の出現以来「絵画としての肖像」からは「モデルの再現性」という価値が薄れてきた。写真のほうが肖像もふくめて現実をより自然主義的に描写できた。従って「絵画としての肖像」は「再現」という規範をはずれ、別の価値をもとめる方向へと進んでいった。
自然主義を忌避した未来派にとって写真の特性は変革しなければならないものであった。そこでブラガッリアは「フォトディナミカ」という方法を掲げた。その方法を「フォトディナミズモ」の名のもとに理論化した。未来派に参加してすぐ発表した写真は一枚の印画紙に連続写真のような動く被写体が焼き付けられた。いくつかの表情を見せる「多面的自画像」、タイプを打つ女性の手を写した「タイピスト」、さらには椅子に坐る男を殴るもうひとりの男を写した「平手打ち」などなど焦点のぼけた写真群が「フォトディナミズモ」の原理を具現化した作品だった。これは未来主義絵画を象徴する作品として知られるジャコモ・バッラの『鎖につながれた犬』の写真版である。こうした写真や絵を見るとすぐわかるように未来派は平面に運動を表現しようとした。未来主義にエティエンヌ・マレーの連続写真やベルクソン哲学との関連が指摘されているゆえんである。未来派の運動志向がやがて映画への関心を呼び起こすことになるのは必然的な経路だった。ブラガッリアが「フォトディナミズモ」の概念に従って映画会社を作り、いくつもの実験映画を製作していくのは時間のもんだいだった。ブラガッリアの実験映画については日本でも何人かの映画史研究者が言及しているので、ここでは省略する。映画の後に演劇の革新へとブラガッリアの活動は移ってゆく。
一九一八年にコンドッティ街というローマのメーン・ストリートに「芸術の家ブラガッリア」という小さな空間をもった。最初はギャラリーとして未来派画家の作品を展示していたが、いつしか文化人の拠点のようなものになり、絵画ばかりか、建築、音楽、演劇などが論じられるようになった。端的にいえばイタリア文化そのものが論議の対象となった。論争は激しさをきわめ、警察沙汰になることもあった。近隣の住民とのトラブルもたえなかった。いっぽうブラガッリアはというと次第に演劇のほうに傾斜していったので、この場所では不可能になった。
一九二三年一月「芸術の家」を閉鎖し、別の拠点を求めることにした。ローマの中心から離れたあるビルの地下室にささやかな空間を見つけ、そこに演劇実験の場と文学的キャバレーのような舞台を作った。未来派の同志が空間の整備と舞台建設に協力した。ブラガッリアはここを「インディペンデンティ実験劇場」(「実験劇場」と略記する)と呼び、演劇改革へとのりだした。しかし劇場をオープンするには国家の許可が必要だった。おりしも前年ムッソリーニが政権をとり、首相の座についた。「二十年間のファシズム体制」が始まったが、国内政治の安定にファシストたちは全力をそそいでおり、とても芸術の統制には注意がまわらなかった。。美術を管轄するある機関が劇場の活動を認可した。もちろん政治体制が整ってきたとき、芸術もまた統制の視界に入ってきた。ブラガッリアもさきの話になるが、ファシスト党に入党せざるをえなくなってくる。国家が芸術を庇護した時代国王の近くにいないと芸術家は活動できなかったのと同様に、ファシズムの時代も体制の内部にいないかぎりやはり芸術家には表現の場はあたえられなかった。
そんな状況下におかれていたとはいえ、ブラガッリアは一九三〇年三月ブレヒトの「三文オペラ」を「ペテン師たちの集り」というタイトルで上演している。これはモスクワでタイーロフが上演したのと同じ年であった。ベルリンの初演から数えて一年半後のことだった。ブラガッリアは旅行が好きで、一年のうちで少なくとも二ヶ月はイタリアをるすにする。また外国の、といってもほか欧米の国々の、演劇を中心とする雑誌や書物をよく購読していたといわれている。イタリア以外のヨーロッパの文化、とくに演劇に関する情報には詳しかったようだ。「三文オペラ」の場合もその成功を知っていた。
「実験劇場」は「演劇の革新」のほかに「同時代性」ということも理念に掲げていた。情報通だったこの若き未来派はヴァフタンゴフやメイエルホリドの演劇概念やその実践についても知っていたであろう。ゲオルク・フックスの『演劇の革命』に影響をうけていた。それに触発されて、『革命の演劇』なる書を上梓している。またエヴレイノフの著作にも親しんでおり、その演劇理論にも通じていた。ブラガッリアは「考古学者」と呼ばれていたことはすでに記したが、実際に考古学関係の著作を若いころに発表しているが、演劇にもその「考古学的知」を発揮しようとした。それが「発掘」という活動を促した。それがギリシャ・ローマ演劇、ルネサンスバロック演劇などの古典の再評価と外国の同時代作家の紹介となって現れた。
ブラガッリアの紹介した外国の劇作家をここで少し挙げてみよう(「ブラガッリア兄弟の実験場 一九一一―一九三二」を参照)。ここで注釈をいれるとブラガッリアの活動には三人の弟が協力しているが、カルロ・ルドヴィコとアルトゥーロという上の二人はもっぱら映像関係にたずさわっており、三人目のアルベルトはジャーナリストであったが舞台美術を時々手伝った。従って「実験劇場」はアントン・ジュリオが中心だったといってさしつかえない。
「実験劇場」を開始したシーズン(一九二三)にはバーナード・ショー、ヴェデキントそれに私の知らない作家数名がいる。翌シーズンには「ジャワ舞踊」をどういうダンサーにか知らないが踊らせている。振り付け師としてユリウス・ハンス・シュピーゲルの名をあげているが、寡聞にして私は知らない。なお日本舞踊にも興味をもっていて、前年にはそれらしきものを紹介している。そのほか「実験劇場」の活動を停止するまでにとりあげた著名な外国の劇作家には以下のような名があがっている。
ドゥ・ヴィニー、ラフォルグ、ストリンドベリー、ジャリ、チャペック、アポリネール、アシャール、クラウス・マン、ビュッヒュナー、シュニツラー、カイザー、ミシェル・ドゥ・ゲルドゥロード、ウナムノ、ヴァジェ=インクラン、オニール、ソートン・ワイルダーなどであるが、これを見るとブラガッリアの目配りのよさがわかる。しかもこうした劇作家の作品をファシズム体制のもとで上演したという事実は驚嘆に値する。やがて体制の監視機構が作動するのいうまでもなかった。「実験劇場」はもっと「ナショナリスティックな方向性」をとるようを要請される。一九三〇年のシーズンを最後に実験劇場の幕は下ろされたが、ブラガッリアはこれで演劇改革の道を諦めたわけであはなかった。名目上は三十六年まで続くが、実質的には三十年で活動は終焉とみなしてよかろう。
ブラガッリアがメイエルホリドの演劇活動や他のヨーロッパ諸国の演劇状況についてかなり通じていたのは、『動く仮面』(一九二六)のなかでこういっていることでも証明できる。「われわれはロシア、ドイツ、オーストリアチェコ・スロヴァキア、ハンガリールーマニア、トルコ、ギリシャ、それにフランスの演劇をよく知っている。また個人的に研究した結果、外国の劇作家には実に学ぶべきことが多く、わが劇場にもっとその実態を伝えるべきだということもわかってきている」。一九〇六年メイエルホリドはブロークの『見世物小屋』にピエロを登場させているし、ブラガッリアが未来派に加盟したころにはすでに「ドットーレ・ダペルトゥット」というゴッツィの芝居に登場する人物を名乗って、演出をしていた。メイエルホリドがコッメディア・デッラルテ(以後CDAと略記)の再評価にのりだしているという情報はブラガッリアの耳に入ってきていた。ロシアの演出家は一九一四年みずから発行する雑誌に「三つのオレンジへの恋」というタイトルをつけたことでもCDAに対する関心の高さがうかがわれる。二人の間に直接交流があったという証拠はないが、メイエルホリドが以下のような電報をブラガッリアに送っているところをみると、なんらかの接触はあったとみてもおかしくはない。
「『インディペンデンティ・実験劇場とそのリーダーであり、天才的芸術家であり、しかも新しき道の探索者である、ブラガッリアに最大の祝福をおくる。実験劇場の芸術的活動は困難であるが、その将来は偉大である。新たなると新たなる勝利をこころから祝いたい』。タイーロフから寿ぎの言葉もきている。メイエルホリドのものはおそらくブラガッリアの「実験劇場」七年目のよせられたヨーロッパの演劇人の祝電のひとつであろう。
ブラガッリアは「実験劇場」を立ち上げたときに俳優の身体性を重視した。この身体性と即興の概念を結びつけたのもメイエルホリドの影響と考えてもよかろう。イタリアではいわゆる「アドリブ」と呼ばれる「声の即興性」は大衆演劇に蔓延していたが、「身体の即興性」を演劇革新のカリキュラムに含めたのは、当時としては斬新な印象をあたえた。そもそも未来派の考えていた新しい演劇とは「自然主義性」「戯曲の文学性」「名優主義」などに代表される十九世紀の演劇を否定することだった。そこから「ヴァラエティー・ショー」の演劇形式やペトロリーニのような大衆喜劇のクラウンを支持するマニフェストが生まれてきた。ブラガッリアが取り上げたレパートリーを見る限り同時代の戯曲作品がおおいが、その間にダンスやパントマイムも挿入した。
 時代はCDA発掘と再評価へと向かっていた。、いうなれば「CDAルネサンス」という現象ははロシア・フォルマリストの演劇理論やその実践の過程から芽生えてきたようである。メイエルホリドの後押しもあったようだが、十年代にはミクラシェフスキーの詳細なCDA研究が進み、一九一七年には出版されるところとなっている。こうしてCDAがエリートの演劇に拮抗するプロレタリアートの演劇であるとして革命以前におおきな意味を持ち始めた。一九二七年にパリでフランス語に翻訳・出版されると、ミクラシェフスキーのCDA研究は急速にヨーロッパで知られるようになった。
 フランスではCDAと演劇の関係は十七世紀以来とぎれることなく続いており、研究書も出版されてきたばかりか、二十世紀の演劇改革という文脈でも関心が高まった。ルコックの研究所に学んだ日本の演劇人も多いが、実をいえば、彼らもそうした二十世紀初頭以来の「演劇改革の文脈」に身をおいていたのである。パリには何人かの演劇改革者があらわれたが、なかでもジャック・コポーがヴィユー・コロンビエ座を創立し、改革の活動にかかわったとき、CDAの技法を参照しようと提唱した。ブラガッリアは「イタリアのコポー」とも呼ばれていた。
コポーは本格的にCDAを調査する必要にせまられた。そこで彼の演劇運動にかかわっていたピエール・ルイ・デュシャルトルに調査を依頼した。それが「コンメディア・デラルテとその末裔」だったが、残念ながら上梓されたのはミックの書に遅れること十年以上たっていた。
 ブラガッリアがCDAについて知ったのはもちろんこうした研究書からではない。十九世紀末からイタリアでもCDA研究の本は出ていたが、演劇改革との関連でCDAをとりあげた研究はなかった。ただゴードン・クレイグが一九〇〇年代のはじめイタリアにやってきて、フィレンツェに「アレーナ・ゴルドーニ」という劇場を作った。これがCDAを近代劇に接合させようという試みの最初ではなかったか。「ユーバーマリオネット」という俳優論がクレイグのなかで胚胎してきたのもこうした試みからであった。さらに彼は「マスク」という演劇雑誌を創刊する。こうした演劇状況をブラガッリアは知らずに青年時代をすごしたわけはない。未来派としての活動の最初は映像であったが、「実験劇場」をはじめたときにはクレイグのフィレンツェでの活動を知っていたはずである。ブラガッリアの「実験劇場」はまさにロシア、フランスの演劇状況と同時代性を示していたことになる。
 ドイツ・オーストリアではどうだったかつまびらかにしないが、二〇年代にはラインハルトがゴルドーニの『ふたりで一度に主人を持つと』を上演しているから、CDAと近代劇の関係について似たような潮流が生まれていた。「CDAルネサンス」は新しい演劇を創造しようとしていた演劇人のあいだに広まっていった。メイエルホリドが最初の演劇人ではあったが、CDAに改革のきっかけを求めた二十世紀はじめのヨーロッパ演劇の事例は調べれば調べるほど出てくる。
 ブラガッリアのアンダーグラウンド・シアターではほぼ十年間で五十本のパントマイムが上演された。具体的にはどのような種類のもか不明であるが、CDAを基礎にしたものであると推察できる。「実験劇場」を始めたときから生涯CDAの研究と近代劇への応用とに情熱をかたむけた。彼は毎年ヨーロッパの主要都市を旅しているが、一九二四年モスクワまで足を運んでいる。想像力をたくましくすれば、この滞在でメイエルホリドの現代劇とCDAの融合、マイムやアクロバシーの演劇への導入、ビオメハニカのメソッドや構成主義舞台全般について多くを学んできたかもしれない。残念ながらブラガッリアはロシアでの演劇的経験を語ってはいないが、ロシア滞在は演出の重要性を認識させる機会となったことはうたがいない。
 イタリアではいまでこそ「演出(レジーエ)」「演出家(レジスタ)」というタームをなんの疑問もなくつかっているが、二十世紀のはじめには「ディレクター」とか「舞台監督」などといわれていた。ブラガッリア自身「合唱指揮者」と自分を呼んでいた。それがある時期から「演出」が定着していった。彼は「演出家」として俳優の演技指導から舞台美術・ライティングまで手がけた。
 ムッソリーニは自分の政治改革を「ファシズム革命」と規定していた。ブラガッリアはこの革命に参加することを決意した。三十年代になると政府の演劇政策にかかわってゆくが、そこからはまた別の問題が発生してくる。本稿はとりあえず未来派のなかに知られざる「演劇改革者」がいたことを紹介するにとどめよう。