『「金融システム」は世界を救済できるか』

「テアトロ」『闇の光明』『戦場のような女』『ザ・パワー・オブ・イエス
 ブレヒトの『闇の光明』(劇団「風」岩淵達治訳演出:桐山知也)は、一九一九年作とあるから、作者が二十一歳前後、おそらくキャバレーなどのポピュラー・エンターテインメントに夢中になっていた時期に書いたものだろう。この短い戯曲は私に新しい発見をもたらした。というのはドイツにもいかがわしい「衛生展覧会」なるものがあったということを知ったからである。日本でもかつて同じ趣向の催し物があって、客を呼び寄せていた。教育的効用をうたいながらその実、性病に冒された女性の局部や肉体を蝋細工や本物で見せていた。裸の女性が舞台では見られなかった時代に大衆のエロティシズムを満足させる見世物となっていた。一種の「フリークス・ショー」でもあった。『闇の光明』の原題は"Lux in Tenebris”とあるからラテン語である。ラテン語とは聖職者の言語であり、しかも“Lux”とは「啓蒙主義」と俗悪な「エロティシズム」を暗示する両義的な言葉である。なんというアイロニーだろうか。舞台はとある町の悪場所にある広場(娼家の並んだ「淫売窟通り」と台本にはある)。演出はここに高さほぼ一米の演技台を据える。この台の上に立って呼び込みのパドゥーク(車宗洸)が性病の名を連呼して、客入れをする。やがて娼家の経営者ホッゲ夫人(辻由美子)と呼び込みは共同経営をし成功する。芝居は「悪のハッピーエンド」で終わるが、この劇のメタファーは?
次に『戦場のような女』(川口覚子訳)。ルーマニア人出身で、現代フランスの劇作家マテイ・ヴィスニュックが「風」に書き下ろした作品。演出は浅野佳成であるが、実際には江原早哉香がほぼすべてを担当したよし。初演の時は二幕だったが、今回は休憩なしで、一気に二時間の上演。主題が重厚で、複雑なため観劇には緊張感が求められる。出演者は二人。ボストン精神医学診療所から派遣されているケイト(柴崎美納)とボスニアの女性ドラ(工藤順子)。舞台はクロアチアのある病院。ケイトは奥の椅子に坐り、机の上に広げた日記を読む。ドラは前方の椅子に坐って動かない。ケイトの問いかけにも答えない。二人の間にはディスコミュニケーションの空気が流れている。こうした構図で長い劇は始まる。副題に「あるいはボスニア紛争の戦場のような女の性について」とあるように、これはクロアチア人、セルビア人、ボシュニャク人を中心に始まった内戦でレイプされ、妊娠した女性の物語である。ケイトの日記には「民族主義的リビドー」とあるが、精神分析の発達したアメリカではレイプはそう見られていた。一般的にはレイプは「民族浄化」の最大の方法とみなされている。作者は巧みな表現をする。「レイプは電撃戦の形式のひとつである」。兵士は銃弾・砲弾・戦車にではなく、女たちの叫びに身をさらす。敵対する民族を動揺させるためにレイプ作戦が展開される。こうして女たちは強制妊娠させられ、放り出される。ドラもそうした女のひとりだった。女性とは戦場だったわけである。
ケイトの職務は報告書を作成することだったが、次第にドラへの共感が生まれ、アイルランド人という自分の出自への思いにとらわれる。「見るもの」が「見られる」という「さかさまの世界」が提示される。一方ドラは「生む」「生まない」という「ダブルマインド」の状態におかれるが、結局生むことを決断し、養子にというケイトの申し出も断り、自分で育てるという解決が暗示される。要約は一見簡単そうであるが、民族的アイデンティティや多様な問題群が提出され、劇は重層化する。戯曲の細部へのめくばりが必要である。
柴崎・工藤の演技にみなぎっていた熱気は客席にまで伝わってきた。就中パンを口一杯に頬ばりながら台詞をいうくだりには稽古の成果もよく現れており、心動かすものがあった。ひたすら二人の台詞まわしと身体表現に劇の進行を委ねた演出も特筆に価する。
しんがり坂手洋二演出の「ザ・パワー・オブ・イエス」(デイヴィッド・ヘアー作・常田景子訳)。M・ムアーの「ザ・ビッグ・ワン」には、アメリカの大企業の非情なパワーが大衆の生活を劣化させている状況がよく描かれているが、同時にその背後にある金融システムの支配力も感じさせる。システムは不可視であるが、ある日突然巨大な姿を現す。それが「リーマンショック」だった。この不可知な現象は英国でも同じだったようだ。その原因解明の試みがこの戯曲だ。俳優は「金融崩壊譚」の語り部となり、演出は聴覚性を助長する。だが芝居を見る楽しみはない。「債権の証券化」「レバレッジ」などのタームは透明になるが、それより戦慄的なのは「金融システムのグローバルなパワー」の存在だ。「ボスニア・ヘルツゴヴィナ紛争」まで飲み込んでしまう。「金融システム破綻」の前では「民族浄化」も単なるローカルな事象として語られることになるのかもしれない。

ジンガロ

 バルタバスの主宰するカンパニー「ジンガロ」とは、イタリア語でロマ民族を意味するが、今は亡き彼の愛馬の名でもある。「ジンガロ」は常に異質な文化を作品の主題とし、西欧中心主義を打破してきた。前回の来日公演ではチベット文化ととりくんだ「ルンダ」だったが、今回はロマの声が聞こえるルーマニアをとりあげている。
 タイトルの「バトゥータ」とはモルドヴァ地方の民族舞踊で、男女がペアで足を踏み鳴らして踊るダンスである。そのモルドヴァからきたブラスバンドトランシルヴァニア地方からきたストリングス(弦楽器の奏者たち)が円形の馬場をはさんで向かい合う。片方がリズムを刻み、もう一方は叙情性を歌いあげ、交互にロマ音楽を演奏する。  「バトゥータ」は民族舞踊をこえるルーマニア文化の象徴として用いられている。
 さてリングでは何十頭もの馬が疾駆する。アーティストは馬と伴走し、飛び乗っては,馬上でアクロバットを演じる。スピーディーで、スリリングな曲馬ショーが展開する。アリーナには興奮の渦がまきおこる。まさに「ほとばしる生命の奔流」を見る思いがする。    
 「ジンガロ」は二十年前に創立されたが、その時にはただ「馬のオペラ」と呼ばれた作品は以後地平を広げ、壮大な劇的世界を描き出してきた。
 本公演をバルタバスは「原点回帰」と評する。「ジンガロ」の旅はいま「里帰り」し、祖形を表現する。通俗性の故か彼は「サーカス」の語を嫌うが、あえてそれを使えば、曲馬は原点だった。美しい衣装に身をつつんだ女性騎手は馬上で曲技を見せ、道化は馬に乗り損ない、笑わせる。この場面はすべて「バトゥータ」にはそろっている。今回バルタバスは馬を操る神技を披露するより、曲馬を中心とするエンターテインメントの構成に心血をそそいだ。
                  

シルク・ドゥ・ソレイユ(ディズニーランド)

 舞浜駅を降りると異界だった。迷路のような通りを抜け、広場に出ると、そこにシルク・ドゥ・ソレイユの常設劇場があった。場内に一歩足を踏み入れると広大な客席に驚くが、円形舞台の上に設置された球形の物体と湾曲した四層の巨大な背景にも目を奪われる。「天体観測儀」を模した装置というが、一瞬プラネタリウムにいるかのような感覚にとらわれる。これから「宇宙のスペクタクル」が始まることを予感させる。
 開演十分前客席に赤鼻のクラウンが二人登場し、リラックスした雰囲気を漂わせる。やがて舞台に白ずくめの道化が出てくる。ここに「赤面」と「白塗り」の伝統的クラウンの存在を発見出来る。タイトルの「Zed(ゼッド)」とはこの「白の道化」のこと。タロットカードではZはゼロに通じ、「愚者=道化」を意味する。このZがカードの人物の間を遍歴するという設定になっている。F・ジラール演出の舞台ではタロットのイマーゴ・ムンディ(世界像)がヴィジュアル化される。
 タロットのシンボリズムがわからぬくてもショーは充分楽しめる。冒頭を飾るのは「空中ロープ」だ。天井の球体からおりてくるカラフルな布を体に巻きつけた二人の美しい女性が空中を自在に飛び回る。その後ジャグリング、トランポリング、「人間ピラミッド」、ハイワイヤー、アクロバットなどで肉体は次々と多彩な超絶技巧を披露する。これには観客も興奮し、叫び声さえあげる。演目はすべてショー・アップされているので、定番でありながら新鮮に映る。圧巻は「空中ブランコ」だ。鳥人たちの大空を舞う姿に陶酔するが、それ以上に驚いたのはメカニズムだ。大きな網の準備は人力にたより、時間もかかるが、ここでは瞬時のうちに機械が網を張り、スピーディーな舞台転換を可能にする。「精巧な機械の中で発揮される身体性」、これこそ他を寄せつけない「シルク・ドゥ・ソレイユ」の魅力だろう。生バンドの演奏も迫真力を添える。

「ある未来派演出家について」こんなことを書いてみた。

「ある未来派演出家について」(1)
 F.T.マリネッティが二十世紀のはじめ未来主義という名の前衛的な芸術運動を展開しようと計画を練り、同志を募った。賛同して集った同志を「未来派」と呼び、創立宣言を発表することになった。マリネッティはフランスの日刊紙「フィガロ」を選んだ。一九〇九年二月二〇日創立宣言は掲載された。その年から今年でちょうど百年経過した。芸術運動にとって「百年記念」はさして意味がないが、回顧するにあたっては恰好の機会であろう。イタリアでもいくつかの都市で未来派関連の展覧会が催された。
 もっとも大規模だったのは二月六日から六月七日までミラノのパラッツォ・レアーレで開催された「未来主義909−2009」であった。サブタイトルには「速度・芸術・行動」とあった。この展覧会はイタリア共和国大統領ジョルジョ・ナポリターノ、さらにはミラノ市長後援となっている。思えば一九八六年ヴェネツィアのパラッツォ・グラッシで開催された「未来主義(単数)と未来主義(複数)」では、総監督はポントゥス・フルテンだった。聞けば北欧の人だったようだが、未来主義研究者にはなじみのない名であった。
展覧会会場ももとはおおきな倉庫で、それを改装した空間だった。つまり未来主義展が最初の催し物だった。ある雑誌には「ムッソリーニが革命家だって?」とこの展覧会を揶揄する記事も載っていた。まだ未来主義はイタリアではタブー視されていたわけである。研究も本国より外国のほうが多かった。周知のように未来派の多くはファシズトになったり、ファシズムにシンパシーを抱いたりした。かつて私が『ファシストを演じた人々』(青土社)を書いたとき、初版を売り切ったにもかかわらず再販は出なかったし、同社の出版広告からもはずされていた。だから『ファシズムと文化』を上梓したときには、序文に「本書はあくまでもムッソリーニの政治体制やファシズムというイデオロギーの批判を前提としている」と研究者の立場の旗幟を鮮明にしたものである。最近ある若い研究者(大内紀彦)の「下位春吉論」を読む機会があったが、その中で彼は「ファシズムにかかわった思想や人物は(中略)歴史の中で黙殺されてきた」と臆せず語っている。下位春吉というのは第二次大戦中ムッソリーニダヌンツィオと交友関係にあったせいか、帰国後は日本でイタリアン・ファシズムを喧伝したダンテの研究者だったが、戦後は戦争協力者としてブラック・パージを受けた。大内氏はいま下位の再評価をめざしているが、氏の文章を読むと、時代はファシズムのしばりから解放されるつつあるという感じがする。 
私が未来主義研究を始めた六十年代は文献も少なかったが、書物の定価も安かった。「マリネッティ戯曲集」などは数千円で手に入った。そのかわりマリネッティの伝記さえ正確なものは書かれていなかった。そんな文献のとぼしいころに始めたわが調査は拙著『イタリアのアヴァンギャルド』(一九八一年刊)となって結実した。おそらくこれが日本で最初の本格的な「未来主義」の紹介書ではないかとおもっている。した。以後さまざま人が「未来派」についてエッセーを書き、セゾン美術館で展覧会まで開催されるにいたった。ヨーロッパにおける初発のこの芸術運動に対する関心が芽をふきかけた。しかし現在の日本ではどうだろうか。シュールレアリスムダダイスム表現主義などにはときどき新しいアプローチが生まれてきているのに、未来主義は御用済みとばかりに脇へ片付けられてしまっている。
 二〇〇九年は未来主義創立百年にあたるのに日本のジャーナリズムは一顧だにしない。ただ日本経済新聞がミラノの展覧会に関する和田忠彦の小文を載せているので、厳密に「一顧だにしない」というのは正確ではないかもしれない。そもそも日本の新聞はジョルジョ・ストレーレルが他界したときも無関心だった。外国の演出家にページをさく余裕はないというかもしれないが、それではローマン・ヤコブソンはどうか。言語学の巨人の死を報道さえしない。未来主義運動の生成に一言もふれないのはけだし当然かもしれない。これを日本のジャーナリズムの怠惰というべきか、無知というべきか知らないが、知的退廃に冒されているにはたしかだ。「現象」を追いかけることに汲々として、「歴史」には無関心というのが日本のジャーナリズムであろう。
 それでもこんなことがあった。十月の半ば南青山の画廊で「未来派最後の画家」ドメニコ・ベッリの個展があるという情報を手にしたので出かけてみた。もちろん新聞で知ったのではない。個人情報で知ったのである。「時の忘れもの」という変わった名の小さな画廊だった。ベッリの作品が八点ほど展示されていた。「百年」というメルクマールを知った上での企画であることはいうまでもない。
 ベッリについては知る人もまずいないと思うので、個展のときもらった資料によって経歴を紹介しておこう。
 「一九〇九年ローマ生まれ。一九二九年ジャコモ・バッラのアトリエに入り、未来派の活動に参加。ローマの『ブロッコ・ディ・フトゥルシムルタニヌティ(未来同時主義者集団)』でアスグスト・ファヴァッリ、ブルーノ・タートと活動する。(中略)。一九三四年―四二年A.G.ブラガリアがディレクターを務めたテアトロ・デッレ・アルティ(芸術座)において広報・舞台美術を担当した。(中略)一九八三年ローマ近郊のラヴィーノで没」。
 以上がベッリの略歴であるが、遅れてきた未来派として戦後まで活動した。「宇宙と海の視覚化」を試みた画家として評価されてはいるが、未来主義運動のなかでそれほど重要な活動家ではなかった。しかし未来派の演劇運動に関心のあるものにはちょっと気になる事実がある。一九三四年ベッリがブラガッリア(「ブラガリア」あるいは「ブラガーリア」より原音に忠実と思われるのでこう表記する)の「テアトロ・デッリ・インディペンデンティ(独立者たちの演劇)」に参加していることである。
 アントン・ジュリオ・ブラガッリアは一八九〇年ラツィオ州のフロンシノーネという町で生まれている。母が貴族の血をひいているというから家柄は比較的よかった。未来派に加わったのは十九歳のときだった。未来主義の創立宣言が発表されてすぐのことだった。早熟だったといわれている。十台のころすでに考古学に興味をもち、実際にローマの古代遺跡の発掘にかかわったりしている。未来派の同志になったとき、「未来派の考古学者」といわれた。その後考古学者の道は歩まなかったが、文化の領域で考古学的方法をめざした。ミッシェル・フーコーが「知の考古学」を唱えて以来、「考古学」が単なる発掘という自然科学の方法以上の意味があたえられてきているが、ある意味ではブラガッリアは「知の考古学」の先駆者であったというべきかもしれない。
 そのころの家庭としては豊かな環境にあったのだろう、写真を趣味にしていた。十代で未来派の思想に共感するくらいであるから、「芸術の革新」を実践することに意欲をもやしていた。それには写真の革新がもっとも身近な手段だった。草創期にあった写真の技術はもっぱら現実の断片を自然主義的に、それもたくみに切り取ることに重点がおかれていた。「瞬間性」も重要な要素だった。現実のある瞬間を印画紙に写しとることも、絵画には不可能な技術だった。肖像写真もまた瞬間性を利用した絵画に不可能な技術だった。写真の出現以来「絵画としての肖像」からは「モデルの再現性」という価値が薄れてきた。写真のほうが肖像もふくめて現実をより自然主義的に描写できた。従って「絵画としての肖像」は「再現」という規範をはずれ、別の価値をもとめる方向へと進んでいった。
自然主義を忌避した未来派にとって写真の特性は変革しなければならないものであった。そこでブラガッリアは「フォトディナミカ」という方法を掲げた。その方法を「フォトディナミズモ」の名のもとに理論化した。未来派に参加してすぐ発表した写真は一枚の印画紙に連続写真のような動く被写体が焼き付けられた。いくつかの表情を見せる「多面的自画像」、タイプを打つ女性の手を写した「タイピスト」、さらには椅子に坐る男を殴るもうひとりの男を写した「平手打ち」などなど焦点のぼけた写真群が「フォトディナミズモ」の原理を具現化した作品だった。これは未来主義絵画を象徴する作品として知られるジャコモ・バッラの『鎖につながれた犬』の写真版である。こうした写真や絵を見るとすぐわかるように未来派は平面に運動を表現しようとした。未来主義にエティエンヌ・マレーの連続写真やベルクソン哲学との関連が指摘されているゆえんである。未来派の運動志向がやがて映画への関心を呼び起こすことになるのは必然的な経路だった。ブラガッリアが「フォトディナミズモ」の概念に従って映画会社を作り、いくつもの実験映画を製作していくのは時間のもんだいだった。ブラガッリアの実験映画については日本でも何人かの映画史研究者が言及しているので、ここでは省略する。映画の後に演劇の革新へとブラガッリアの活動は移ってゆく。
一九一八年にコンドッティ街というローマのメーン・ストリートに「芸術の家ブラガッリア」という小さな空間をもった。最初はギャラリーとして未来派画家の作品を展示していたが、いつしか文化人の拠点のようなものになり、絵画ばかりか、建築、音楽、演劇などが論じられるようになった。端的にいえばイタリア文化そのものが論議の対象となった。論争は激しさをきわめ、警察沙汰になることもあった。近隣の住民とのトラブルもたえなかった。いっぽうブラガッリアはというと次第に演劇のほうに傾斜していったので、この場所では不可能になった。
一九二三年一月「芸術の家」を閉鎖し、別の拠点を求めることにした。ローマの中心から離れたあるビルの地下室にささやかな空間を見つけ、そこに演劇実験の場と文学的キャバレーのような舞台を作った。未来派の同志が空間の整備と舞台建設に協力した。ブラガッリアはここを「インディペンデンティ実験劇場」(「実験劇場」と略記する)と呼び、演劇改革へとのりだした。しかし劇場をオープンするには国家の許可が必要だった。おりしも前年ムッソリーニが政権をとり、首相の座についた。「二十年間のファシズム体制」が始まったが、国内政治の安定にファシストたちは全力をそそいでおり、とても芸術の統制には注意がまわらなかった。。美術を管轄するある機関が劇場の活動を認可した。もちろん政治体制が整ってきたとき、芸術もまた統制の視界に入ってきた。ブラガッリアもさきの話になるが、ファシスト党に入党せざるをえなくなってくる。国家が芸術を庇護した時代国王の近くにいないと芸術家は活動できなかったのと同様に、ファシズムの時代も体制の内部にいないかぎりやはり芸術家には表現の場はあたえられなかった。
そんな状況下におかれていたとはいえ、ブラガッリアは一九三〇年三月ブレヒトの「三文オペラ」を「ペテン師たちの集り」というタイトルで上演している。これはモスクワでタイーロフが上演したのと同じ年であった。ベルリンの初演から数えて一年半後のことだった。ブラガッリアは旅行が好きで、一年のうちで少なくとも二ヶ月はイタリアをるすにする。また外国の、といってもほか欧米の国々の、演劇を中心とする雑誌や書物をよく購読していたといわれている。イタリア以外のヨーロッパの文化、とくに演劇に関する情報には詳しかったようだ。「三文オペラ」の場合もその成功を知っていた。
「実験劇場」は「演劇の革新」のほかに「同時代性」ということも理念に掲げていた。情報通だったこの若き未来派はヴァフタンゴフやメイエルホリドの演劇概念やその実践についても知っていたであろう。ゲオルク・フックスの『演劇の革命』に影響をうけていた。それに触発されて、『革命の演劇』なる書を上梓している。またエヴレイノフの著作にも親しんでおり、その演劇理論にも通じていた。ブラガッリアは「考古学者」と呼ばれていたことはすでに記したが、実際に考古学関係の著作を若いころに発表しているが、演劇にもその「考古学的知」を発揮しようとした。それが「発掘」という活動を促した。それがギリシャ・ローマ演劇、ルネサンスバロック演劇などの古典の再評価と外国の同時代作家の紹介となって現れた。
ブラガッリアの紹介した外国の劇作家をここで少し挙げてみよう(「ブラガッリア兄弟の実験場 一九一一―一九三二」を参照)。ここで注釈をいれるとブラガッリアの活動には三人の弟が協力しているが、カルロ・ルドヴィコとアルトゥーロという上の二人はもっぱら映像関係にたずさわっており、三人目のアルベルトはジャーナリストであったが舞台美術を時々手伝った。従って「実験劇場」はアントン・ジュリオが中心だったといってさしつかえない。
「実験劇場」を開始したシーズン(一九二三)にはバーナード・ショー、ヴェデキントそれに私の知らない作家数名がいる。翌シーズンには「ジャワ舞踊」をどういうダンサーにか知らないが踊らせている。振り付け師としてユリウス・ハンス・シュピーゲルの名をあげているが、寡聞にして私は知らない。なお日本舞踊にも興味をもっていて、前年にはそれらしきものを紹介している。そのほか「実験劇場」の活動を停止するまでにとりあげた著名な外国の劇作家には以下のような名があがっている。
ドゥ・ヴィニー、ラフォルグ、ストリンドベリー、ジャリ、チャペック、アポリネール、アシャール、クラウス・マン、ビュッヒュナー、シュニツラー、カイザー、ミシェル・ドゥ・ゲルドゥロード、ウナムノ、ヴァジェ=インクラン、オニール、ソートン・ワイルダーなどであるが、これを見るとブラガッリアの目配りのよさがわかる。しかもこうした劇作家の作品をファシズム体制のもとで上演したという事実は驚嘆に値する。やがて体制の監視機構が作動するのいうまでもなかった。「実験劇場」はもっと「ナショナリスティックな方向性」をとるようを要請される。一九三〇年のシーズンを最後に実験劇場の幕は下ろされたが、ブラガッリアはこれで演劇改革の道を諦めたわけであはなかった。名目上は三十六年まで続くが、実質的には三十年で活動は終焉とみなしてよかろう。
ブラガッリアがメイエルホリドの演劇活動や他のヨーロッパ諸国の演劇状況についてかなり通じていたのは、『動く仮面』(一九二六)のなかでこういっていることでも証明できる。「われわれはロシア、ドイツ、オーストリアチェコ・スロヴァキア、ハンガリールーマニア、トルコ、ギリシャ、それにフランスの演劇をよく知っている。また個人的に研究した結果、外国の劇作家には実に学ぶべきことが多く、わが劇場にもっとその実態を伝えるべきだということもわかってきている」。一九〇六年メイエルホリドはブロークの『見世物小屋』にピエロを登場させているし、ブラガッリアが未来派に加盟したころにはすでに「ドットーレ・ダペルトゥット」というゴッツィの芝居に登場する人物を名乗って、演出をしていた。メイエルホリドがコッメディア・デッラルテ(以後CDAと略記)の再評価にのりだしているという情報はブラガッリアの耳に入ってきていた。ロシアの演出家は一九一四年みずから発行する雑誌に「三つのオレンジへの恋」というタイトルをつけたことでもCDAに対する関心の高さがうかがわれる。二人の間に直接交流があったという証拠はないが、メイエルホリドが以下のような電報をブラガッリアに送っているところをみると、なんらかの接触はあったとみてもおかしくはない。
「『インディペンデンティ・実験劇場とそのリーダーであり、天才的芸術家であり、しかも新しき道の探索者である、ブラガッリアに最大の祝福をおくる。実験劇場の芸術的活動は困難であるが、その将来は偉大である。新たなると新たなる勝利をこころから祝いたい』。タイーロフから寿ぎの言葉もきている。メイエルホリドのものはおそらくブラガッリアの「実験劇場」七年目のよせられたヨーロッパの演劇人の祝電のひとつであろう。
ブラガッリアは「実験劇場」を立ち上げたときに俳優の身体性を重視した。この身体性と即興の概念を結びつけたのもメイエルホリドの影響と考えてもよかろう。イタリアではいわゆる「アドリブ」と呼ばれる「声の即興性」は大衆演劇に蔓延していたが、「身体の即興性」を演劇革新のカリキュラムに含めたのは、当時としては斬新な印象をあたえた。そもそも未来派の考えていた新しい演劇とは「自然主義性」「戯曲の文学性」「名優主義」などに代表される十九世紀の演劇を否定することだった。そこから「ヴァラエティー・ショー」の演劇形式やペトロリーニのような大衆喜劇のクラウンを支持するマニフェストが生まれてきた。ブラガッリアが取り上げたレパートリーを見る限り同時代の戯曲作品がおおいが、その間にダンスやパントマイムも挿入した。
 時代はCDA発掘と再評価へと向かっていた。、いうなれば「CDAルネサンス」という現象ははロシア・フォルマリストの演劇理論やその実践の過程から芽生えてきたようである。メイエルホリドの後押しもあったようだが、十年代にはミクラシェフスキーの詳細なCDA研究が進み、一九一七年には出版されるところとなっている。こうしてCDAがエリートの演劇に拮抗するプロレタリアートの演劇であるとして革命以前におおきな意味を持ち始めた。一九二七年にパリでフランス語に翻訳・出版されると、ミクラシェフスキーのCDA研究は急速にヨーロッパで知られるようになった。
 フランスではCDAと演劇の関係は十七世紀以来とぎれることなく続いており、研究書も出版されてきたばかりか、二十世紀の演劇改革という文脈でも関心が高まった。ルコックの研究所に学んだ日本の演劇人も多いが、実をいえば、彼らもそうした二十世紀初頭以来の「演劇改革の文脈」に身をおいていたのである。パリには何人かの演劇改革者があらわれたが、なかでもジャック・コポーがヴィユー・コロンビエ座を創立し、改革の活動にかかわったとき、CDAの技法を参照しようと提唱した。ブラガッリアは「イタリアのコポー」とも呼ばれていた。
コポーは本格的にCDAを調査する必要にせまられた。そこで彼の演劇運動にかかわっていたピエール・ルイ・デュシャルトルに調査を依頼した。それが「コンメディア・デラルテとその末裔」だったが、残念ながら上梓されたのはミックの書に遅れること十年以上たっていた。
 ブラガッリアがCDAについて知ったのはもちろんこうした研究書からではない。十九世紀末からイタリアでもCDA研究の本は出ていたが、演劇改革との関連でCDAをとりあげた研究はなかった。ただゴードン・クレイグが一九〇〇年代のはじめイタリアにやってきて、フィレンツェに「アレーナ・ゴルドーニ」という劇場を作った。これがCDAを近代劇に接合させようという試みの最初ではなかったか。「ユーバーマリオネット」という俳優論がクレイグのなかで胚胎してきたのもこうした試みからであった。さらに彼は「マスク」という演劇雑誌を創刊する。こうした演劇状況をブラガッリアは知らずに青年時代をすごしたわけはない。未来派としての活動の最初は映像であったが、「実験劇場」をはじめたときにはクレイグのフィレンツェでの活動を知っていたはずである。ブラガッリアの「実験劇場」はまさにロシア、フランスの演劇状況と同時代性を示していたことになる。
 ドイツ・オーストリアではどうだったかつまびらかにしないが、二〇年代にはラインハルトがゴルドーニの『ふたりで一度に主人を持つと』を上演しているから、CDAと近代劇の関係について似たような潮流が生まれていた。「CDAルネサンス」は新しい演劇を創造しようとしていた演劇人のあいだに広まっていった。メイエルホリドが最初の演劇人ではあったが、CDAに改革のきっかけを求めた二十世紀はじめのヨーロッパ演劇の事例は調べれば調べるほど出てくる。
 ブラガッリアのアンダーグラウンド・シアターではほぼ十年間で五十本のパントマイムが上演された。具体的にはどのような種類のもか不明であるが、CDAを基礎にしたものであると推察できる。「実験劇場」を始めたときから生涯CDAの研究と近代劇への応用とに情熱をかたむけた。彼は毎年ヨーロッパの主要都市を旅しているが、一九二四年モスクワまで足を運んでいる。想像力をたくましくすれば、この滞在でメイエルホリドの現代劇とCDAの融合、マイムやアクロバシーの演劇への導入、ビオメハニカのメソッドや構成主義舞台全般について多くを学んできたかもしれない。残念ながらブラガッリアはロシアでの演劇的経験を語ってはいないが、ロシア滞在は演出の重要性を認識させる機会となったことはうたがいない。
 イタリアではいまでこそ「演出(レジーエ)」「演出家(レジスタ)」というタームをなんの疑問もなくつかっているが、二十世紀のはじめには「ディレクター」とか「舞台監督」などといわれていた。ブラガッリア自身「合唱指揮者」と自分を呼んでいた。それがある時期から「演出」が定着していった。彼は「演出家」として俳優の演技指導から舞台美術・ライティングまで手がけた。
 ムッソリーニは自分の政治改革を「ファシズム革命」と規定していた。ブラガッリアはこの革命に参加することを決意した。三十年代になると政府の演劇政策にかかわってゆくが、そこからはまた別の問題が発生してくる。本稿はとりあえず未来派のなかに知られざる「演劇改革者」がいたことを紹介するにとどめよう。



 

「ある未来派演出家について」(承前)

ファシズムという全体主義体制を忌避して、亡命すべきか、いや体制内で自己を主張して、改革を試みるべきかーこの問題は第二次大戦後さまざまな角度から論じられた。とくにドイツの作家や音楽家にこの問題は突きつけられた。幸か不幸かイタリアはレジスタンス勢力は自力でファシズム体制を打倒したことになっているので、「ニュールンベルク裁判」や「東京裁判」のような連合軍による裁判はなかった。「人民裁判」や「国内裁判」による、処刑をふくむ厳しい判決もあったが、不問の形で戦後の民主主義体制に組み込まれた文化人もけっこういた。
 ピランデッロファシスト党を離党もしなかったし、イデオロギーも放棄しなかったが、あきらかにムッソリーニ体制を嫌い、外国に滞在する時間を長引かせた。これは一種の「亡命」であるという見方がいまでは強まってきている。遺族が党葬を拒否し、「アンチファシスト」として死んだと世界に思わせたことは、ピランデッロの名誉に花をそえている。彼がファシズムとの距離をおきはじめているという報告が、ジュネーヴから内務省によせられていた。時の公安警察が記録として残していた(一九三五年二月二十一日)。
 「亡命しているグリエルム・フェッレーロ教授が何人かの友人に語ったところでは、ノーベル賞を受賞したルイジ・ピランデッロは、最近党幹部やムッソリーニの不評をかっており、真剣に亡命を考えている。亡命先はスエーデンの模様。同国では著書がかなり売れているので」。ファシスト政府の監視網は外国にまでおよんでいたことがわかる。ついでにいえば、ピランデッロはブラジルの発言でも政府の不興をかっている。
 ではアントン・ジュリア・ブラガッリアはどうであったか。彼も反ファシズム的な言辞や活動をとらえられてはいないが、ファシズム体制に従順でない性向を内務官僚に指摘されていた。「アンチコンフォルミスト」というレッテルを貼られていた。演劇改革を志していれば、「コンフォルミスト」であるはずもないのだが。彼の演出になる舞台は当然原作とはちがい、「パッツォイド」(気がふれている)と検閲担当官は見ていたものもある。
 しかしブラガッリアには戦略があったのだろう。劇作家ではなく、演出家であったので、イタリアに残って、演劇の改革を実行しなくてはならなかった。革新的な絵画を発表する場として、コンドッティ街に「芸術の家」という活動の拠点を作った。ここで演劇をふくめた同時代文化に全否定をつきつけつけた。この拠点には、「アングリー・ジェネレーション」が集ってきては、外部から見れば「騒動」のような行動をとっていたので、もともと公安には目をつけられていたが、「騒動」は「革命」へと進まないと見られていた。「革命」はファシスト勢力が推し進め、権力奪取に成功した。「未来派」は「革命」の主体にはならないが、「シンパ」になるとファシスト側はみていた。事実後年マリネッティたちはファシスト党員になり、体制を支える勢力を構成した。ブラガッリアは政治的には自らをファシストと規定しながらも、政治的活動には手をださなかった。もっぱら演劇活動にのめりこんでいた。一九二三年からやはりの市の中心にあったアヴィニョネージ街に作った新しいスタジオで演劇的実験を重ねるつもりであったが、一方で小さな劇場を飛び出し、広い空間を劇場化するという構想ももっていた。これを実践するには公的な認可が必要だった。それには絶大な権力を手にし始めたムッソリーニ政権が協力してくれるとの予感があった。「実験劇場」のオープニングにムッソリーニを招待したが、出席しなかったので、書面で要望することにした。
 「1:ダンスや音楽などを入れて演劇を野外で公演したり、あるいは夜サーチ・ライトで照らし、花火を華やかに打ち上げ、ボルゲーゼ公園のギリシャ式の劇場で芝居を見せる(中略)ことは近代的な目論見です。そこでお願いしたいのは、騎馬隊、戦車隊などの協力です。入場券は学校関係に半額で発売することにします。群衆には学生を参加させます。この三つの要素を投入することで経済的な問題は解決できると同時に、制作費を回収するに必要な収入はあげることもできるとおもいます。
 2:近代的な劇団が出演する芸術劇場―近代的な設備の整った劇場であることーを創立するためには全国に宝くじを発売するという提案もあります。このことについてもお話もうしあげたいとおもっております」。
 この「お願い」と「提案」に対してはムッソリーニから「ノー」という返事がきた。一九二三年五月に交わされた書簡だった。「提案」については詳細をしりたいとはいったが 軍隊に関してはそのようなイヴェントには関与させないというにべもない回答だった。ムッソリーニは勅命を受けて組閣をおわったところだった。やがて絶対の権力者になるが、首相の座について半年ほどである。軍隊を演劇に導入したら世論の反発をかうことは必然だった。ムッソリーニを支持した国民は演劇の改革ではなく、政治の改革を求めていた。ファシスト政府はまだ文化の問題には手をだしていなかった。なによりもまず政治ありきだった。文化統制がはじまってくるのは二十年代の後半であった。
 ブラガッリアといえば、「全体演劇」を志向していた。トラック、戦車、大砲などの武器、兵士、群集を投入した「マス・シアター」はファシズム期に実現はしなかったが、これは中世の祝祭劇あるいは共同体の主催する野外劇に起源がり、近代になって多くの演出家が夢想した上演である。数十年前ルカ・ロンコーニがフィアットの工場内部にある広い空間を活用して、カール・クラウスの『人類最後の日』を上演したことがある。新聞・雑誌にのった記事から推測すると、広い空間に線路が敷かれ、列車が走ったり、乗用車やトラックが行き来するといったスペクタクルだったらしい。日本でもいくつかの試みを見た記憶がある。
 そうした軍隊の協力をえた大規模なスペクタクルをブラガッリアはファシスト政権下で実現しようと策略をねったが、うまくゆかなかった。一九二三年ムッソリーニ政権もまだ基盤が堅固にはなっていなかったが、ブラガッリアのはじめた「実験劇場」もまだ方向性を確立してはいなかった。しかしこの情熱的な演出家はファシスト政権に希望を託していた。だからある意味では「すりより」とも見られる手紙を出し続けた。おそらくその数は百通はくだらないだろう。ピランデッロのように亡命は考えてもいなかった。ムッソリーニファシズムイデオロギーによる政治改革を「革命」と位置づけていたことは前回に記したが、一九一七年の「ロシア革命」にも匹敵するとおもいこんだ。ゆえに「ファシズム革命」と呼んだわけである。
ムッソリーニが大きく右旋回していったのは一九一七年ごろだった。第一次世界大戦終結ぢたあとイタリアには参戦の代価として約束されていたものがあたえられなかった。国民の不満が噴出しそれが政府にむけられた。一九一九年国民的な詩人ダヌンツィオが義勇兵を募り、イタリアに返還されなかった領土(フューメ)を占拠したのもそうした土壌からうまれた。ダヌンツィオがファシストであったかどうかはここで問わないが、熱烈なナショナリストであったことはまちがいない。ファシズムを助長させた背景には強烈なナショナリズムがあった。
左翼側はこのナショナリズムのうねりを理解しながらも、自分たちの陣営にひきよせることができなかった。イタリア共産党の生みの親のひとりアントニオ・グラムシは新聞で劇評を担当していたが、国民がなぜイプセン劇の上演にはせ参じないで、キャバレーやヴァライエtィー・ショー、あるいはサーカスなどのくだらないエンターテインメントに夢中になるのか理解できないと書いていた。国民に魅力ある文化的なプログラムを提示できなかったグラムシ側にもファシズムの生成を阻止できなかった一端の責任はあるのかもしれない。われわれの場合でいえば、日常テレビにあふれているタレントたちの愚にもつかない遊びをみていると、グラムシの気持ちもわからないではない。政治のなかで決定力をもつマジョリティーとはどのような思想をもち、どのように行動するのか、つねに不可知なものである。
グラムシは少数者でもってフューメを一年以上にわたって占領し、コムーネのような共同体を作ろうとしたダヌンツィオに興味を示し、戦略の詳細を聞き出そうとしたといわれている。一時的にせよ国家権力を奪取し、自分たちの理念にふさわしい共和国を樹立しようとしたのが、左翼勢力ではなく、ファシスト勢力だったことについてはさまざまな考察が可能であるが、グラムシダヌンツイオに出し抜かれたことは事実である。ファシストロシア革命を詳細に分析したという話はきいたことがないが、映画の分野では「ソヴィエト・モデル」があったことは確認されている。チネチッタの映画研究所ではエイゼンシテインやプドフキンが研究されていた。戦後クローズアップされたネオレアリズモも実はファシスト政権の運営していたチネチッタの映画研究からうまれてきたのである。
「実験演劇」は十年代から二十年代にかけてのロシアのさまざまな演劇的試みの影響はなかったが、ブラガッリアは強引にイタリアのほうが先取りしていたと主張する。「『幾何学的スタイルはソヴィエトによってすでに確立されていたから、ファシズムコミュニストと同じスタイルをもとめた』といわれているが、ちょっとまってほしい。幾何学的スタイルをU.R.S.S.が確立したのは、ムッソリーニと「イタリアの人民」誌がファシズムを誕生させ、いま世界中に影響を与えているイタリアン・スタイルの創造者たちを支援した後のことである。(中略)ルナチャルスキー自身いうようにロシア人は自分たちの芸術はイタリアの未来主義からの影響であると認めている」とその著「革命の演劇」((一九二九)に書いている。「幾何学的スタイル」とはなにか判然としないが、舞台美術やロボット的人形の導入だったら多少事実と一致する。世紀末から二十世紀はじめにかけてはさまざまな革新的な演劇論や舞台芸術論が現れてきている。同時多発的でもあった。どこの国の誰が最初かとなると、議論は錯綜する。ただブラガッリアもそういった革新の波の飛沫はあびていたことはまちがいない。
エヴレイノフとブラガッリアとの関係は特定できないが、接近したことは確かであろう。英語の演劇百科事典には、エヴレイノフは一九二五年パリに“emigrate”と記されている。
フランス語でもイタリア語でも“emigre”,”emigrato”(やはり「一九二五年」となっている)がつかわれている(「移民としてやって来た」と解釈できるが、「移民」には「亡命」の意も含まれる)。ところが『ロシア・アヴァンギャルド小百科』(タチヤナ・ヴィクトロヴナ・コトヴィチ著・桑野隆監訳)では「二五年一月、ワルシャワプラハ、パリを訪れる。二六年にはニューヨークのギルド劇場で活動し、『生活における演劇』の出版を準備し、講義を行う。二七年、パリに定住」とある。「小百科」の記述を額面通りうけとれば、「亡命」ではなかった。こうしてパリに居を定めたエヴレイノフにブラガッリアは会った可能性はある。というのは「実験劇場」の創立七周年の際このローマ人にお祝いの言葉を送っているからである。
エヴレイノフは、アンネンコフたちの協力を得て、ペトログラード(現在のサンクト・ペテルブルグ)の冬宮の前の広場で大野外劇を制作している。広場の両端に二つのプラットフォーム(足場のようなものか)を組み、白軍と赤軍の兵士を配置した。その二つのプラットフォームをつなぐ橋の下に五百人からなるオーケストラを置いた。ここで革命劇を兵士たちに演じさせた。宮殿のいくつもの窓には闘う兵士の影が写しだされた。花火が打ち上げられ、旗がふられ、革命の勝利が謳いあげられた。この「大スペクタクル」が実際の革命指導者たちから批判されたとはどこにも書かれてはいない。とすれば亡命する理由はないわけである。母親がフランス人だったので、定住の地としてパリを選んだという単純な見方でかまわないのだろうか。。ソヴィエト連邦を離れる理由がどこかにあったのか、研究者に聞いてみたいところである。
この野外劇のことを『小百科』で確認してみると「(エヴレイノフは)二十年にはペトログラードで、扇動的な大規模の芸術を組織する試みとしてだけでなく、その三年前に体験された出来事そのものの昇華の契機を強調する試みとしても、群集劇『冬宮奪取』(一万人の参加者)をつくり上げた。それは独特な心理劇であった」となっている。「心理劇」というのはちょっと腑に落ちないが、想像するに、音楽や歌舞のある「ロシア革命再現劇」ではなかったのだろうか。ブラガッリアはこれを知っていたのか、いなかったか、じつに興味がある。
七十年代にパリでも大きなスポーツ・パレスで『フランス革命』が上演されたことがあるが、『冬宮奪取』の遠い記憶がよみがえったのかもしれない。直接的には「五月革命」の影響とおもわれるが。
エヴレイノフを語るときに必ず持ち出されるキーワードは「演劇性」(英語では「シアトリカリティー」であるが、たしか高山宏が「芝居がかり」という訳語を与えていた)。人間の生活のなかにある「演劇性」を指摘したものであるが、これは演劇理論や演劇史に関する概念のなかで大きくクローズアップされる。ピランデッロの演劇概念とも通底しているし、リペッリーノのディスクールを刺激した理論でもある。新しいところでは、アメリカの社会学者アーウイン・ゴフマンの「行為と演技」に関する理論が想起される。
さらにエヴレイノフの行った演劇のなかで注目をひくのは、フランス中世演劇とスペインの「黄金時代」の演劇である。一九〇七年に立ち上げた劇団「古代劇場」(スタンリヌイ・チアトル)は、「最初のシーズン、中世奇蹟劇や教訓劇、笑劇、十三世紀のアダム・ド・ハーレ作の牧歌劇『ロバンとマリオンの劇』から成る二つのプログラムを上演した」(エドワード・ブローン『メイエルホリド 演劇の革命』浦雅春他訳)。エヴレイノフは古代劇からはじめて中世劇・ルネサンス劇へといたるヨーロッパの演劇史をカバーするつもりだったようであるが、現実には中世演劇の上演にも時間がかかった。次の公演にはコンメディア・デッラルテ(CDAと略記)ものということで、周到な準備をしていたが、一九一四年第一次世界大戦が勃発し、計画は頓挫した。このCDAのほうは一九一〇年に開場した小劇場「幕間劇の館」(ドーム・インテルメージー)で、シュニッツラーの作品「ピエレットの肩掛け」をメイエルホリドが自由に翻案し、「コロンビーナの肩掛け」というタイトルで上演した(ブローン前掲書参照)。「古代劇場」でエヴレイノフが活動したあたりから、やがてヨーロッパの演劇界に波及してゆく「CDAルネサンス」の兆しがみえてくる。
一方中世劇のほうというと、すでに世紀末から再評価が始まっていた。聖史劇、ミラクル・プレイ、モラリティー・プレイ、受難劇などとよばれる宗教的な中世劇が反自然主義的可能性をもった演劇として浮上してきた。理由はいろいろあろうが、まず第一に上演の場がおおくは野外だったこと、次に俳優と観客の境界がなかったり、希薄だったことがあったからであろう。当然仕切りとしてしての幕のない近・現代の劇場概念とも隣接していた。さらに共同体が主催する、共同体自身の演劇だったことが、閉鎖的な常設の劇場は演劇上演のすべてではないと考える機会をあたえた。これは古代ギリシャ劇やローマ劇についてもいえることだった。演劇を本来の形態に戻そうという動きがヨーロッパの演劇人から生まれてきた。エヴレイノフの「古代劇場」などもそうした動きのひとつだった。中世劇復活の動きからは、演劇と祝祭、演劇と民衆、自然主義的要素の排除などさまざまな演劇の桎梏をとりはずそうという試みが行われてきた。ワグナーの楽劇、アッピアの舞台装置の出現はこういう演劇史の流れでとらえることができる。ラインハルトとホフマンスタールの中世劇再評価の試みもその流れから除外できないだろう。
ここでブラガッリアにもどると、ファシズム体制化ならかつて中世劇が占めていた役割をはたせるとおもった。具体的にはファシズムイデオロギーを盛り込んだ共同体演劇を制作しようとはかったのである。しかしムッソリーニはワグナーの庇護者ルートヴィッヒ二世ではなかった。ブラガッリアの提案を一蹴し、「既成の劇場を整備して、使用するように」と答えた。かくして中世劇、宗教劇、そして共同体劇としてのファシスト・スペクタクルはブラガッリアの手では実現しなかったが、慧眼なるムッソリーニには、巨大なファシスト・スペクタクルを制作をひそかにもくろんでいたふしがある。ローマ市は一九四〇年に行われる予定だった第十二回大会オリンピックの開催地として立候補しているからである。そのときに建設されたオリンピック・スタジアムは未完のまま残されている。現在は観光スポットになっている。
ヒットラーナチスのオリンピックのようにムッソリーニファシストのオリンピックが実現した暁には、ファシズムを世界に宣伝する大規模なオープニング・セレモニーを披露する恰好の機会が到来するとイタリア政府は計算していた。しかしオリンピックも万博も国際組織委員会からは招致を拒否されたので、北京オリンピックの総指揮をとったチャンイーモーのようなスターは生まれなかった。
ブラガッリアは前稿で述べたようにフックスの影響をうけていた。、『演劇の革命』をひっくり返して『革命の演劇』を一九二九年に上梓した。著者はかなり長い序文をムッソリーニに献じた。それはオマージュという形をとった「へつらい」でもあった。「実験劇場」発足以来なんどとなくこの独裁的な首相に謁見を求めてきたが、かなわなかった。その代償としていささかオーヴァーなオマージュをささげたのだろう。
「運命に導かれながら、八年間にわたって革命より生まれた実験劇場は閣下の下にあった。これからは閣下の意思に従い、劇場は自らを防御し、生きてゆきます。どうか、閣下、われわれをカタコンベキリスト教信者の隠れていた地下の洞窟)から連れ出し、従順なる精神に勝利をあたえてください」と序文をむすんでいる。
この過剰なオマージュから見えてくるものは、ブラガッリアが演劇活動で追い込まれているこtである。アヴィニョネージ街の地下にある実験劇場から外へでてファシスト・スペクタクルの制作をさせてくれとたのんでいるようである。また彼は国立劇場の建設も請願していた。「演劇の改革は舞台の改革から」と信じており、廻り舞台、可変式の舞台、精密な照明装置などを備えた近代的な劇場の建設も要求していた。しかし演劇改革には政府は動かなかった。ムッソリーニは「新しい劇場などとんでもない。既成の立派な劇場があるではないか」とねべもなく拒否していた。
また実験劇場の運営も財政的に困難になってきた。ブラガッリアは政府に援助を申しいれていたが、やはり聞き入れられなかった。彼は劇団を組んで巡業にでなくてならなくなった。ムッソリーニは「実験劇場」が困窮しているのを知って、閉鎖を命じた。こうして「実験劇場」一九二九年最後のシーズンを迎え、翌三十年幕を下ろした。「実験劇場」のオープニングのときにくらべ、ブラガッリアに関する新聞・雑誌の記事が少なくなり、閉鎖のことも話題にならなかった。一九三〇年アルゼンティンの演劇関係の団体から招待をうけ、ブラガッリア五月に出発した。旅費は自己負担であったので、政府に負担を求めている。彼としてはアルゼンチンで公式行事にも出席したり、イタリアの演劇状況に関する講演を行うので、政府が協力するのは当然と考えた。
一方「実験劇場」の閉鎖という事態は避けられず、アルゼンチン出発前に拠点となっていた地下の劇場で最後の公演をおこなった。公演といってもエミーリア・ヴィダーリという有名な歌手のコンサートだった。ファリャ、グラナドスなどのスペイン歌曲にくわえて、ペルー、アルゼンチンなどの歌を歌った。このコンサートは好評をむかえられたが、財政的な窮状には変化はなかった。ブラガッリアは「実験劇場」が閉鎖となると、国際的な反響が大きいと政府におどしをかけたが、ムッソリーニの決定は覆らなかった。
ブラガッリアとしては、「閉鎖」が「破産」と受け取られると、不名誉なので、「実験劇場」の名称は存続させることにした。しかし実態は数々の実験的演劇を試みてきた小さな地下空間での活動には終止符がうたれた。以後彼は「実験劇場」の番外活動としてイタリア国内の巡業を始めることにした。この巡業にたいしても交通費(主として劇団員の移動にともなう鉄道運賃)無料化や機材運搬経費の大幅な負担などさまざまな財政援助を求めた。体制側は巡業はファシズム芸術の広報宣伝になると考え、ある程度ブラガッリアの要求にこたえた。ちなみに「三文オペラ」は巡業最初の演目で、ミラノの劇場(フィロドランマチ座)で公演した。「三文オペラ」の選択には体制側から異論がだされたが、ミラノ公演は実現した。大成功とはいわないまでも、不評ではなかった。演劇批評家たちもブレヒトのことを理解していなかったのか、理解していないフリをしていたのか知らないが、エンターテインメントの戯曲として快く受け入れた。もっともブラガッリアも「ジャズ・コメディー」と副題をつけていた。ブラガッリア自身も新聞記者とのインタヴューで「この作品ではおおくの有益な機会、つまり音楽、演技、衣装、特に演出について考える機会をあたえられた」と答えている。これはいままでなかったことだが、カーテン・コールで舞台に現れ、観客の拍手に答えた。
アルゼンチンから帰国したときにはもはや「実験劇場」の主催者ではなかったが、それから数年、一九三六年まで九本の作品を演出している。もちろん拠点のアンダーグラウンド・シアターではなく、ヴァッレとアルジェンティーナという、プロセニアム・アーチの劇場でだった。「実験劇場」のタイトルで演出した最後の作品は『ジェズアルド親方』というジョヴァンニ・ヴェルガの小説をブラガッリア自身が戯曲化したものだった。ヴェルガといえば、オペラにもなった『カヴァレリア・ルスティカーナ』の作者であるが、自然主義的色彩の強い作品を書いた作家である。体制の検閲も考えてヴェルガを選んだのであろうが、実験的演出を続けてきた演出家のレパートリーとしては不似合いの感がある。それでもかねての心情である「反自然主義」の手法をつらぬいたのかどうか、残念ながら判断する資料には欠けている。
当然ブラガッリアは政治状況と闘いながら演劇活動を続けてきたのだが、やはりファシズムの壁は乗り越えられなかった。私的であろうと、公的であろうと、上演は体制の目にふれる。視線を拒否する上演はありえない。戯曲は秘匿できる。しかし上演はできない。
ブラガッリアがアルゼンチンから帰国したころからムッソリーニはたがを締めはじめた。ドゥーチェの内部で自信が強化されてきたのか、危機が胚胎してきたのか。おそらくその両方だったろう。しかし外面的にはファシズム体制は一枚岩的になっていった。芸術家や表現者の擬態や撹乱に容易にごまかされなくなってきた。ボッタイという寛容で、文化に理解のあった閣僚が解任された。「コルポラツィオーネ」(労使協調つまり使うものと使われるものが協調する制度)からボッタイが離れたことは、ブラガッリアにとっても痛手であった。ブラガッリアは「コルポラツィオーネ」の映画演劇部門のアドヴァイザーと舞台芸術全国連合会の事務局長とをつとめていた。
「すべては国家の内にある。国家の外にあるものはないもない」と豪語するムッソリーニにとって演劇的実験など益するところはなにもなかった。芸術の自由もまたどうようだった。ブラガッリアが「実験劇場」の看板をおろした翌年にはイタリアはエチオピアを併合し、ファシズム国家の意気盛んなところを示した。
ブラガッリアは体制内では演劇関係の役職についていたので、協力的とみなされていた。ムッソリーニもその点を評価していたようだ。国立劇場を建設するというブラガッリアの提案は受け入れることはできなかったが、「芸術座」の主宰者というタイトルを認めた。以後彼はファシスト演劇人として演劇活動を続けたが、実験性とはすっかり離れてしまった。三十年代後半から彼は仮面や道化の研究に専念していった。しかし実験的・先鋭的演劇活動を続けてきたメイエルホリドを襲った悲運にくらべれば、幸福な生涯を送ったといわざるをえない。

                 

ある未来派演出家についてこんなことを書いた。

「ある未来派演出家について」
 F.T.マリネッティが二十世紀のはじめ未来主義という名の前衛的な芸術運動を展開しようと計画を練り、同志を募った。賛同して集った同志を「未来派」と呼び、創立宣言を発表することになった。マリネッティはフランスの日刊紙「フィガロ」を選んだ。一九〇九年二月二〇日創立宣言は掲載された。その年から今年でちょうど百年経過した。芸術運動にとって「百年記念」はさして意味がないが、回顧するにあたっては恰好の機会であろう。イタリアでもいくつかの都市で未来派関連の展覧会が催された。
 もっとも大規模だったのは二月六日から六月七日までミラノのパラッツォ・レアーレで開催された「未来主義909−2009」であった。サブタイトルには「速度・芸術・行動」とあった。この展覧会はイタリア共和国大統領ジョルジョ・ナポリターノ、さらにはミラノ市長後援となっている。思えば一九八六年ヴェネツィアのパラッツォ・グラッシで開催された「未来主義(単数)と未来主義(複数)」では、総監督はポントゥス・フルテンだった。聞けば北欧の人だったようだが、未来主義研究者にはなじみのない名であった。
展覧会会場ももとはおおきな倉庫で、それを改装した空間だった。つまり未来主義展が最初の催し物だった。ある雑誌には「ムッソリーニが革命家だって?」とこの展覧会を揶揄する記事も載っていた。まだ未来主義はイタリアではタブー視されていたわけである。研究も本国より外国のほうが多かった。周知のように未来派の多くはファシズトになったり、ファシズムにシンパシーを抱いたりした。かつて私が『ファシストを演じた人々』(青土社)を書いたとき、初版を売り切ったにもかかわらず再販は出なかったし、同社の出版広告からもはずされていた。だから『ファシズムと文化』を上梓したときには、序文に「本書はあくまでもムッソリーニの政治体制やファシズムというイデオロギーの批判を前提としている」と研究者の立場の旗幟を鮮明にしたものである。最近ある若い研究者(大内紀彦)の「下位春吉論」を読む機会があったが、その中で彼は「ファシズムにかかわった思想や人物は(中略)歴史の中で黙殺されてきた」と臆せず語っている。下位春吉というのは第二次大戦中ムッソリーニダヌンツィオと交友関係にあったせいか、帰国後は日本でイタリアン・ファシズムを喧伝したダンテの研究者だったが、戦後は戦争協力者としてブラック・パージを受けた。大内氏はいま下位の再評価をめざしているが、氏の文章を読むと、時代はファシズムのしばりから解放されるつつあるという感じがする。 
私が未来主義研究を始めた六十年代は文献も少なかったが、書物の定価も安かった。「マリネッティ戯曲集」などは数千円で手に入った。そのかわりマリネッティの伝記さえ正確なものは書かれていなかった。そんな文献のとぼしいころに始めたわが調査は拙著『イタリアのアヴァンギャルド』(一九八一年刊)となって結実した。おそらくこれが日本で最初の本格的な「未来主義」の紹介書ではないかとおもっている。した。以後さまざま人が「未来派」についてエッセーを書き、セゾン美術館で展覧会まで開催されるにいたった。ヨーロッパにおける初発のこの芸術運動に対する関心が芽をふきかけた。しかし現在の日本ではどうだろうか。シュールレアリスムダダイスム表現主義などにはときどき新しいアプローチが生まれてきているのに、未来主義は御用済みとばかりに脇へ片付けられてしまっている。
 二〇〇九年は未来主義創立百年にあたるのに日本のジャーナリズムは一顧だにしない。ただ日本経済新聞がミラノの展覧会に関する和田忠彦の小文を載せているので、厳密に「一顧だにしない」というのは正確ではないかもしれない。そもそも日本の新聞はジョルジョ・ストレーレルが他界したときも無関心だった。外国の演出家にページをさく余裕はないというかもしれないが、それではローマン・ヤコブソンはどうか。言語学の巨人の死を報道さえしない。未来主義運動の生成に一言もふれないのはけだし当然かもしれない。これを日本のジャーナリズムの怠惰というべきか、無知というべきか知らないが、知的退廃に冒されているにはたしかだ。「現象」を追いかけることに汲々として、「歴史」には無関心というのが日本のジャーナリズムであろう。
 それでもこんなことがあった。十月の半ば南青山の画廊で「未来派最後の画家」ドメニコ・ベッリの個展があるという情報を手にしたので出かけてみた。もちろん新聞で知ったのではない。個人情報で知ったのである。「時の忘れもの」という変わった名の小さな画廊だった。ベッリの作品が八点ほど展示されていた。「百年」というメルクマールを知った上での企画であることはいうまでもない。
 ベッリについては知る人もまずいないと思うので、個展のときもらった資料によって経歴を紹介しておこう。
 「一九〇九年ローマ生まれ。一九二九年ジャコモ・バッラのアトリエに入り、未来派の活動に参加。ローマの『ブロッコ・ディ・フトゥルシムルタニヌティ(未来同時主義者集団)』でアスグスト・ファヴァッリ、ブルーノ・タートと活動する。(中略)。一九三四年―四二年A.G.ブラガリアがディレクターを務めたテアトロ・デッレ・アルティ(芸術座)において広報・舞台美術を担当した。(中略)一九八三年ローマ近郊のラヴィーノで没」。
 以上がベッリの略歴であるが、遅れてきた未来派として戦後まで活動した。「宇宙と海の視覚化」を試みた画家として評価されてはいるが、未来主義運動のなかでそれほど重要な活動家ではなかった。しかし未来派の演劇運動に関心のあるものにはちょっと気になる事実がある。一九三四年ベッリがブラガッリア(「ブラガリア」あるいは「ブラガーリア」より原音に忠実と思われるのでこう表記する)の「テアトロ・デッリ・インディペンデンティ(独立者たちの演劇)」に参加していることである。
 アントン・ジュリオ・ブラガッリアは一八九〇年ラツィオ州のフロンシノーネという町で生まれている。母が貴族の血をひいているというから家柄は比較的よかった。未来派に加わったのは十九歳のときだった。未来主義の創立宣言が発表されてすぐのことだった。早熟だったといわれている。十台のころすでに考古学に興味をもち、実際にローマの古代遺跡の発掘にかかわったりしている。未来派の同志になったとき、「未来派の考古学者」といわれた。その後考古学者の道は歩まなかったが、文化の領域で考古学的方法をめざした。ミッシェル・フーコーが「知の考古学」を唱えて以来、「考古学」が単なる発掘という自然科学の方法以上の意味があたえられてきているが、ある意味ではブラガッリアは「知の考古学」の先駆者であったというべきかもしれない。
 そのころの家庭としては豊かな環境にあったのだろう、写真を趣味にしていた。十代で未来派の思想に共感するくらいであるから、「芸術の革新」を実践することに意欲をもやしていた。それには写真の革新がもっとも身近な手段だった。草創期にあった写真の技術はもっぱら現実の断片を自然主義的に、それもたくみに切り取ることに重点がおかれていた。「瞬間性」も重要な要素だった。現実のある瞬間を印画紙に写しとることも、絵画には不可能な技術だった。肖像写真もまた瞬間性を利用した絵画に不可能な技術だった。写真の出現以来「絵画としての肖像」からは「モデルの再現性」という価値が薄れてきた。写真のほうが肖像もふくめて現実をより自然主義的に描写できた。従って「絵画としての肖像」は「再現」という規範をはずれ、別の価値をもとめる方向へと進んでいった。
自然主義を忌避した未来派にとって写真の特性は変革しなければならないものであった。そこでブラガッリアは「フォトディナミカ」という方法を掲げた。その方法を「フォトディナミズモ」の名のもとに理論化した。未来派に参加してすぐ発表した写真は一枚の印画紙に連続写真のような動く被写体が焼き付けられた。いくつかの表情を見せる「多面的自画像」、タイプを打つ女性の手を写した「タイピスト」、さらには椅子に坐る男を殴るもうひとりの男を写した「平手打ち」などなど焦点のぼけた写真群が「フォトディナミズモ」の原理を具現化した作品だった。これは未来主義絵画を象徴する作品として知られるジャコモ・バッラの『鎖につながれた犬』の写真版である。こうした写真や絵を見るとすぐわかるように未来派は平面に運動を表現しようとした。未来主義にエティエンヌ・マレーの連続写真やベルクソン哲学との関連が指摘されているゆえんである。未来派の運動志向がやがて映画への関心を呼び起こすことになるのは必然的な経路だった。ブラガッリアが「フォトディナミズモ」の概念に従って映画会社を作り、いくつもの実験映画を製作していくのは時間のもんだいだった。ブラガッリアの実験映画については日本でも何人かの映画史研究者が言及しているので、ここでは省略する。映画の後に演劇の革新へとブラガッリアの活動は移ってゆく。
一九一八年にコンドッティ街というローマのメーン・ストリートに「芸術の家ブラガッリア」という小さな空間をもった。最初はギャラリーとして未来派画家の作品を展示していたが、いつしか文化人の拠点のようなものになり、絵画ばかりか、建築、音楽、演劇などが論じられるようになった。端的にいえばイタリア文化そのものが論議の対象となった。論争は激しさをきわめ、警察沙汰になることもあった。近隣の住民とのトラブルもたえなかった。いっぽうブラガッリアはというと次第に演劇のほうに傾斜していったので、この場所では不可能になった。
一九二三年一月「芸術の家」を閉鎖し、別の拠点を求めることにした。ローマの中心から離れたあるビルの地下室にささやかな空間を見つけ、そこに演劇実験の場と文学的キャバレーのような舞台を作った。未来派の同志が空間の整備と舞台建設に協力した。ブラガッリアはここを「インディペンデンティ実験劇場」(「実験劇場」と略記する)と呼び、演劇改革へとのりだした。しかし劇場をオープンするには国家の許可が必要だった。おりしも前年ムッソリーニが政権をとり、首相の座についた。「二十年間のファシズム体制」が始まったが、国内政治の安定にファシストたちは全力をそそいでおり、とても芸術の統制には注意がまわらなかった。。美術を管轄するある機関が劇場の活動を認可した。もちろん政治体制が整ってきたとき、芸術もまた統制の視界に入ってきた。ブラガッリアもさきの話になるが、ファシスト党に入党せざるをえなくなってくる。国家が芸術を庇護した時代国王の近くにいないと芸術家は活動できなかったのと同様に、ファシズムの時代も体制の内部にいないかぎりやはり芸術家には表現の場はあたえられなかった。
そんな状況下におかれていたとはいえ、ブラガッリアは一九三〇年三月ブレヒトの「三文オペラ」を「ペテン師たちの集り」というタイトルで上演している。これはモスクワでタイーロフが上演したのと同じ年であった。ベルリンの初演から数えて一年半後のことだった。ブラガッリアは旅行が好きで、一年のうちで少なくとも二ヶ月はイタリアをるすにする。また外国の、といってもほか欧米の国々の、演劇を中心とする雑誌や書物をよく購読していたといわれている。イタリア以外のヨーロッパの文化、とくに演劇に関する情報には詳しかったようだ。「三文オペラ」の場合もその成功を知っていた。
「実験劇場」は「演劇の革新」のほかに「同時代性」ということも理念に掲げていた。情報通だったこの若き未来派はヴァフタンゴフやメイエルホリドの演劇概念やその実践についても知っていたであろう。ゲオルク・フックスの『演劇の革命』に影響をうけていた。それに触発されて、『革命の演劇』なる書を上梓している。またエヴレイノフの著作にも親しんでおり、その演劇理論にも通じていた。ブラガッリアは「考古学者」と呼ばれていたことはすでに記したが、実際に考古学関係の著作を若いころに発表しているが、演劇にもその「考古学的知」を発揮しようとした。それが「発掘」という活動を促した。それがギリシャ・ローマ演劇、ルネサンスバロック演劇などの古典の再評価と外国の同時代作家の紹介となって現れた。
ブラガッリアの紹介した外国の劇作家をここで少し挙げてみよう(「ブラガッリア兄弟の実験場 一九一一―一九三二」を参照)。ここで注釈をいれるとブラガッリアの活動には三人の弟が協力しているが、カルロ・ルドヴィコとアルトゥーロという上の二人はもっぱら映像関係にたずさわっており、三人目のアルベルトはジャーナリストであったが舞台美術を時々手伝った。従って「実験劇場」はアントン・ジュリオが中心だったといってさしつかえない。
「実験劇場」を開始したシーズン(一九二三)にはバーナード・ショー、ヴェデキントそれに私の知らない作家数名がいる。翌シーズンには「ジャワ舞踊」をどういうダンサーにか知らないが踊らせている。振り付け師としてユリウス・ハンス・シュピーゲルの名をあげているが、寡聞にして私は知らない。なお日本舞踊にも興味をもっていて、前年にはそれらしきものを紹介している。そのほか「実験劇場」の活動を停止するまでにとりあげた著名な外国の劇作家には以下のような名があがっている。
ドゥ・ヴィニー、ラフォルグ、ストリンドベリー、ジャリ、チャペック、アポリネール、アシャール、クラウス・マン、ビュッヒュナー、シュニツラー、カイザー、ミシェル・ドゥ・ゲルドゥロード、ウナムノ、ヴァジェ=インクラン、オニール、ソートン・ワイルダーなどであるが、これを見るとブラガッリアの目配りのよさがわかる。しかもこうした劇作家の作品をファシズム体制のもとで上演したという事実は驚嘆に値する。やがて体制の監視機構が作動するのいうまでもなかった。「実験劇場」はもっと「ナショナリスティックな方向性」をとるようを要請される。一九三〇年のシーズンを最後に実験劇場の幕は下ろされたが、ブラガッリアはこれで演劇改革の道を諦めたわけであはなかった。名目上は三十六年まで続くが、実質的には三十年で活動は終焉とみなしてよかろう。
ブラガッリアがメイエルホリドの演劇活動や他のヨーロッパ諸国の演劇状況についてかなり通じていたのは、『動く仮面』(一九二六)のなかでこういっていることでも証明できる。「われわれはロシア、ドイツ、オーストリアチェコ・スロヴァキア、ハンガリールーマニア、トルコ、ギリシャ、それにフランスの演劇をよく知っている。また個人的に研究した結果、外国の劇作家には実に学ぶべきことが多く、わが劇場にもっとその実態を伝えるべきだということもわかってきている」。一九〇六年メイエルホリドはブロークの『見世物小屋』にピエロを登場させているし、ブラガッリアが未来派に加盟したころにはすでに「ドットーレ・ダペルトゥット」というゴッツィの芝居に登場する人物を名乗って、演出をしていた。メイエルホリドがコッメディア・デッラルテ(以後CDAと略記)の再評価にのりだしているという情報はブラガッリアの耳に入ってきていた。ロシアの演出家は一九一四年みずから発行する雑誌に「三つのオレンジへの恋」というタイトルをつけたことでもCDAに対する関心の高さがうかがわれる。二人の間に直接交流があったという証拠はないが、メイエルホリドが以下のような電報をブラガッリアに送っているところをみると、なんらかの接触はあったとみてもおかしくはない。
「『インディペンデンティ・実験劇場とそのリーダーであり、天才的芸術家であり、しかも新しき道の探索者である、ブラガッリアに最大の祝福をおくる。実験劇場の芸術的活動は困難であるが、その将来は偉大である。新たなると新たなる勝利をこころから祝いたい』。タイーロフから寿ぎの言葉もきている。メイエrホリドのものはおそらくブラガッリアの「実験劇場」七年目のよせられたヨーロッパの演劇人の祝電のひとつであろう。
ブラガッリアは「実験劇場」を立ち上げたときに俳優の身体性を重視した。この身体性と即興の概念を結びつけたのもメイエルホリドの影響と考えてもよかろう。イタリアではいわゆる「アドリブ」と呼ばれる「声の即興性」は大衆演劇に蔓延していたが、「身体の即興性」を演劇革新のカリキュラムに含めたのは、当時としては斬新な印象をあたえた。そもそも未来派の考えていた新しい演劇とは「自然主義性」「戯曲の文学性」「名優主義」などに代表される十九世紀の演劇を否定することだった。そこから「ヴァラエティー・ショー」の演劇形式やペトロリーニのような大衆喜劇のクラウンを支持するマニフェストが生まれてきた。ブラガッリアが取り上げたレパートリーを見る限り同時代の戯曲作品がおおいが、その間にダンスやパントマイムも挿入した。
時代はCDA発掘と再評価へと向かっていた。、いうなれば「CDAルネサンス」という現象ははロシア・フォルマリストの演劇理論やその実践の過程から芽生えてきたようである。メイエルホリドの後押しもあったようだが、十年代にはミクラシェフスキーの詳細なCDA研究が進み、一九一七年には出版されるところとなっている。こうしてCDAがエリートの演劇に拮抗するプロレタリアートの演劇であるとして革命以前におおきな意味を持ち始めた。一九二七年にパリでフランス語に翻訳・出版されると、ミクラシェフスキーのCDA研究は急速にヨーロッパで知られるようになった。
フランスではCDAと演劇の関係は十七世紀以来とぎれることなく続いており、研究書も出版されてきたばかりか、二十世紀の演劇改革という文脈でも関心が高まった。ルコックの研究所に学んだ日本の演劇人も多いが、実をいえば、彼らもそうした二十世紀初頭以来の「演劇改革の文脈」に身をおいていたのである。パリには何人かの演劇改革者があらわれたが、なかでもジャック・コポーがヴィユー・コロンビエ座を創立し、改革の活動にかかわったとき、CDAの技法を参照しようと提唱した。ブラガッリアは「イタリアのコポー」とも呼ばれていた。
コポーは本格的にCDAを調査する必要にせまられた。そこで彼の演劇運動にかかわっていたピエール・ルイ・デュシャルトルに調査を依頼した。それが「コンメディア・デラルテとその末裔」だったが、残念ながら上梓されたのはミックの書に遅れること十年以上たっていた。
ブラガッリアがCDAについて知ったのはもちろんこうした研究書からではない。十九世紀末からイタリアでもCDA研究の本は出ていたが、演劇改革との関連でCDAをとりあげた研究はなかった。ただゴードン・クレイグが一九〇〇年代のはじめイタリアにやってきて、フィレンツェに「アレーナ・ゴルドーニ」という劇場を作った。これがCDAを近代劇に接合させようという試みの最初ではなかったか。「ユーバーマリオネット」という俳優論がクレイグのなかで胚胎してきたのもこうした試みからであった。さらに彼は「マスク」という演劇雑誌を創刊する。こうした演劇状況をブラガッリアは知らずに青年時代をすごしたわけはない。未来派としての活動の最初は映像であったが、「実験劇場」をはじめたときにはクレイグのフィレンツェでの活動を知っていたはずである。ブラガッリアの「実験劇場」はまさにロシア、フランスの演劇状況と同時代性を示していたことになる。
ドイツ・オーストリアではどうだったかつまびらかにしないが、二〇年代にはラインハルトがゴルドーニの『ふたりで一度に主人を持つと』を上演しているから、CDAと近代劇の関係について似たような潮流が生まれていた。「CDAルネサンス」は新しい演劇を創造しようとしていた演劇人のあいだに広まっていった。メイエルホリドが最初の演劇人ではあったが、CDAに改革のきっかけを求めた二十世紀はじめのヨーロッパ演劇の事例は調べれば調べるほど出てくる。
 ブラガッリアのアンダーグラウンド・シアターではほぼ十年間で五十本のパントマイムが上演された。具体的にはどのような種類のもか不明であるが、CDAを基礎にしたものであると推察できる。「実験劇場」を始めたときから生涯CDAの研究と近代劇への応用とに情熱をかたむけた。彼は毎年ヨーロッパの主要都市を旅しているが、一九二四年モスクワまで足を運んでいる。想像力をたくましくすれば、この滞在でメイエルホリドの現代劇とCDAの融合、マイムやアクロバシーの演劇への導入、ビオメハニカのメソッドや構成主義舞台全般について多くを学んできたかもしれない。残念ながらブラガッリアはロシアでの演劇的経験を語ってはいないが、ロシア滞在は演出の重要性を認識させる機会となったことはうたがいない。
イタリアではいまでこそ「演出(レジーエ)」「演出家(レジスタ)」というタームをなんの疑問もなくつかっているが、二十世紀のはじめには「ディレクター」とか「舞台監督」などといわれていた。ブラガッリア自身「合唱指揮者」と自分を呼んでいた。それがある時期から「演出」が定着していった。彼は「演出家」として俳優の演技指導から舞台美術・ライティングまで手がけた。
 ムッソリーニは自分の政治改革を「ファシズム革命」と規定していた。ブラガッリアはこの革命に参加することを決意した。三十年代になると政府の演劇政策にかかわってゆくが、そこからはまた別の問題が発生してくる。本稿はとりあえず未来派のなかに知られざる「演劇改革者」がいたことを紹介するにとどめよう。



 

大衆芸能

 舞浜駅を降りると異界だった。迷路のような通りを抜け、広場に出ると、そこにシルク・ドゥ・ソレイユの常設劇場があった。場内に一歩足を踏み入れると広大な客席に驚くが、円形舞台の上に設置された球形の物体と湾曲した四層の巨大な背景にも目を奪われる。「天体観測儀」を模した装置というが、一瞬プラネタリウムにいるかのような感覚にとらわれる。これから「宇宙のスペクタクル」が始まることを予感させる。
 開演十分前客席に赤鼻のクラウンが二人登場し、リラックスした雰囲気を漂わせる。やがて舞台に白ずくめの道化が出てくる。ここに「赤面」と「白塗り」の伝統的クラウンの存在を発見出来る。タイトルの「Zed(ゼッド)」とはこの「白の道化」のこと。タロットカードではZはゼロに通じ、「愚者=道化」を意味する。このZがカードの人物の間を遍歴するという設定になっている。F・ジラール演出の舞台ではタロットのイマーゴ・ムンディ(世界像)がヴィジュアル化される。
 タロットのシンボリズムがわからぬくてもショーは充分楽しめる。冒頭を飾るのは「空中ロープ」だ。天井の球体からおりてくるカラフルな布を体に巻きつけた二人の美しい女性が空中を自在に飛び回る。その後ジャグリング、トランポリング、「人間ピラミッド」、ハイワイヤー、アクロバットなどで肉体は次々と多彩な超絶技巧を披露する。これには観客も興奮し、叫び声さえあげる。演目はすべてショー・アップされているので、定番でありながら新鮮に映る。圧巻は「空中ブランコ」だ。鳥人たちの大空を舞う姿に陶酔するが、それ以上に驚いたのはメカニズムだ。大きな網の準備は人力にたより、時間もかかるが、ここでは瞬時のうちに機械が網を張り、スピーディーな舞台転換を可能にする。「精巧な機械の中で発揮される身体性」、これこそ他を寄せつけない「シルク・ドゥ・ソレイユ」の魅力だろう。生バンドの演奏も迫真力を添える。